もう一つのドラゴンヒストリー・・・無我と西村修

 スポーツ報知で藤波辰爾のデビュー45周年を記念して「ドラゴンヒストリー」が連載されているが、その中で触れていなかったのは、かつて藤波が新日本内で旗揚げした"無我”と西村修の存在、無我は自身が掲げた理想でもあったが悪い思い出でもあることから、ストーリーの今後の展開を見てもおそらくもう触れることはないだろう。  1995年に闘魂三銃士(武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也)の台頭もあって、新日本プロレスでの今後の方向性を見失った藤波は「古き良き時代のプロレスの復活」、「1800年代の伝統あるプロレスを蘇らせる」をコンセプトに新日本の1ブランドとして無我を設立、新日本からの帰国命令を拒否し海外に留まっていた西村修を帰国させ、イギリスのジミーライレージムとも提携を結び、10月29日大阪・南港のATCホールでとして旗揚げし、藤波は旗揚げ戦ではタリー・ブランチャードをドラゴンスリーパーで降し、この頃FMWを離れ新日本でデビューした際に藤波がデビュー戦の相手を務めたミスター・ポーゴや、ジュニア時代のライバルである剛竜馬が観戦に訪れ参戦を取り沙汰されたが、藤波はスタイルの違うポーゴや、絶縁していた剛を上げる気はなかった。無我は倉島信行や正田和彦(MAZADA)竹村豪氏を輩出、藤波が新日本の社長に就任したことで興行数が低下すると、新日本内でも台頭してきた西村が中心となり無我は継続されたが、西村に無我を任せたことで藤波との軋轢を生む一因になった。  2005年に新日本がユークス体制になると新体制は選手・スタッフの契約内容を見直し、それによって西村修や田中秀和リングアナが新日本を退団、吉江豊やヒロ斎藤と共に無我をコンセプトにした新団体設立へと動くと、藤波も新日本を退団して合流して「無我ワールド・プロレスリング」を旗揚げ、そのまま社長に就任したが当初は西村と田中リングアナは藤波を誘うつもりもなかった。だが社長になる人間が不在だったため社長経験のある藤波をそのまま社長に据えるも、西村は一番後に合流してきた藤波が社長に就任することに不満だった。  無我は旗揚げしたが興行数も少なく観客の入りも芳しくない状況となると、全ての責任は藤波にあると思い込んだ西村は他の選手にクーデターを持ちかけるが、以前から西村の身勝手さに呆れていた選手らは誰も賛同せず、2007年10月に無我内で孤立した西村は若手だった征矢を引き連れ突如全日本へ移籍、移籍の際には無我の経営に携わっていた藤波伽織夫人を名指しで批判するだけでなく、自身で勝手に登録した無我の商標まで持ち出したことで、藤波に無我の名称を使えないようにした。  藤波は伽織夫人まで批判されただけでなく、自身が名づけた無我の名称も取り上げた西村に怒り絶縁、団体名もドラディションに改めた。新日本の一ブランドとしてスタートした無我だったが、今でも思うことは団体にすべきではなく、藤波が選手を育成する道場レベルに留めるべきだったのではと思うし旗揚げ戦を観戦してきた自分とすれば現在でも残念でならない。