新日本、IGFの骨肉の10年間はここから始まるも、10年後また猪木は同じことを繰り返していた

 2005年11月に新日本プロレスのオーナーだった猪木は敵対的買収から防ぐために、経営危機に陥っていた新日本を売却した。売却前の新日本は猪木がオーナーでありながらも猪木事務所を本拠にして外部から院政を敷いて新日本に干渉し続けていたが、執行役員として在籍していた上井文彦氏が新日本と猪木事務所側の調整役となり、双方のパワーバランスは保たれていた。ところが猪木が新日本の経営改善のために送り込んだ草間政一氏が社長に就任し、経理面で不明瞭さを理由に上井氏を退社に追い込んでしまうと調整役がいなくなったことで、これまで押さえられてきた猪木事務所からの干渉を抑えられなくなってしまい、また草間氏も猪木の意に反して新日本内の不正を正そうとしたため失脚に追いやられ、猪木は自分の意見を反映させやすいように娘婿であるサイモン・ケリー氏を社長として送り込んだが、失脚した草間氏も猪木や新日本への報復として夕刊紙や著書にて猪木を批判するだけでなく経営状態も暴露、かねてから噂されていた新日本の経営危機が表面化してしまった。

 猪木がなぜユークスに新日本を売却したのか、猪木は事業や投資による失敗で借金返済を抱えていたが、猪木の院政体制の堅守のためだったと思う。猪木は「自分あっての新日本プロレスであり、オレ抜きでやっていけるわけがない」と考えていたことから、"新日本の再生は自分自身の手で再生させる、ユークスはその手助けをすればいい"と考えいたのではないだろうか?、猪木は年明けには商標など権利関係を持ち出し猪木事務所を解散に追いやっていた、理由はユークス側が使途不明金が猪木事務所に流れていることを見抜き、猪木が慌ててサイモン氏に権利関係を持ち出させて解散に追いやったのだ。猪木は一発逆転の大ホームラン級のイベントを成功させれば、新日本は再生し新日本や自身の売却していた権利関係も買い戻せる。おそらくだがユークスへの売却は新日本と権利関係を担保にして金を借りた程度しか考えておらず、猪木はビックイベントを当てた上で新日本や権利関係も買い戻すつもりだったのかもしれない。

 しかし当時はライブドアや村上ファンドの影響で企業買収、M&Aが叫ばれ始めた影響でガラス張りの経営が叫ばれていた時代になっており、上場企業であるユークスもガラス張りの経営への改善を条件にして新日本を買収し当然ながら経営状態も調べたが、隠された負債や経理による不正も次々と明るみになり、ユークスは補填するために更なる金をつぎ込むハメになってしまった。だが当の猪木は新日本に干渉し続け、バングラディッシュ大会を開催するために新日本から金を引き出そうとしていた。

 ところがバングラディッシュ大会は新日本の主催ではなく現地プロモーターによる売り興行で、開催までに莫大な経費がかかっていたことがわかると、ユークス体制となった新日本は中止を決定するが、猪木はサイモン氏を通じてバングラディッシュ大会の必要性をユークス体制に訴えるも、多額の金を新日本につぎ込んでいたユークスは無駄な金を出せず、バングラディッシュ大会の中止を公式発表したことで、猪木と新体制となった新日本との対立が生じるようになった。  

その猪木が「イノキ・ゲノム~格闘技世界一決定戦2006~」の9月1日に猪木vsアリが行われた日本武道館で開催を発表、社長だったサイモン氏は新日本が全面バックアップすることをアピールしたが、この年には猪木が提唱したバングラディッシュ大会が中止に追いやられるだけでなく、猪木の管轄だったロス道場も経理の不明瞭さを理由にリストラ対象に入ってしまっていたことから、一発逆転を狙った猪木の意向が反映されたイベントであることは明らかだった。 

 ところが「イノキ・ゲノム2006」の開催は新日本だけでなくユークスにも承諾もしていないことが明るみになり、新日本の名前を勝手に使った猪木に対して「イノキ・ゲノム2006」には協力しないことを通告する。

 猪木にしてみれば"オレの会社なのに、なぜ新日本の名前を使ってはいけないんだ!”と怒っただろうが、猪木が新日本を売却した時点で新日本は猪木のものではなくなっていたが、猪木にはその自覚がすらなく、またユークスも新日本の買収だけでなく再建に向けて莫大な金をつぎ込んでしまったことから、成功の可能性がかなり低い一発逆転のプランにはどうしても乗ることが出来なかったのだ。  

そのユークスの読みがあたったのか「イノキゲノム2006」は開催発表と同時に杜撰さも露呈、出場予定選手に入っていたビックマウスラウドの村上和成、柴田勝頼が事前交渉もないまま出場予定選手と発表されたことで怒り、発表して数分後に出場拒否を表明。小川直也や藤田和之もPRIDEとの契約があったことから出場出来ないなど早くも暗雲が垂れ込め始める。

 負の連鎖はこれだけでは終わらなかった。7月に月寒グリーンドームにてIWGPヘビー級王座をかけて棚橋弘至と防衛戦を行う予定だったブロック・レスナーが防衛戦を拒否しドタキャンをする事件が発生。レスナーは猪木事務所を通じて新日本に参戦していたが、猪木事務所が閉鎖後は新日本が契約を引き継ぎ、猪木だけでなくサイモン氏も新日本再生の切り札としてプッシュしていたが、相手の技を受けずに一方的に勝つスタイルはファンから支持されず、観客動員低下の一因となり、またシリーズにはフル参戦しないどころか、僅か数試合だけで莫大なギャラと支払うなどレスナー側有利な契約を結んでしまっていたことから、新日本にとっては再生の切り札どころか金食い虫と化してしまっていた。 

  レスナーがなぜドタキャンをしたか理由は明らかになっていない、来日にあたってサイモン氏が交渉にあたっていたが、レスナーはHERO'Sを要するFEGからオファーを受けていたこともあって、FEGからの話やIWGPベルトを盾にしてギャラアップを要求し、サイモン氏も「イノキゲノム2006」にとってはレスナーは大事な選手であることから、新日本に対してギャラアップに応じるように説得するも、新日本の答えはNOでレスナーに対してギャラアップに応じないどころか月寒大会をもって契約打ち切りを通告するように指示、ギャラアップに失敗したレスナーは怒り札幌大会のドタキャンとベルトの返還拒否という報復処置に出た。だが当時の新日本の事情とレスナー自身がプロレスよりMMAの方がビジネスになると考え始めていたことから、参戦か拒否かどちらにしても、「イノキゲノム2006」には参戦する気はなく、来日して棚橋戦を行っていたとしても、新日本との契約も打ち切るつもりだったのかもしれない。 

  レスナーのドタキャンが正式に発表され、渡米中だったサイモン氏に代わり菅林直樹副社長が現場にて対応、猪木も駆けつけてファンに挨拶することで火消しに追われたが、失態続きの新日本はファンからソッポを向かれ、開催された王座決定トーナメントでは棚橋弘至が王者となるも、ファンは棚橋プッシュと揶揄し支持しなかった。それでもユークス体制の新日本は棚橋を新たなる象徴と掲げて、棚橋エース路線を推進し始める。

 一方アメリカから戻ったサイモン氏は会見でレスナーに対して永久追放を宣言したが、「イノキゲノム」の中心選手の一人であり、またレスナーエース路線を推進していた猪木やサイモンにとってはレスナーのドタキャン事件は大打撃であり、またレスナーと交渉しながらもIWGPベルトを回収できなかったことで、サイモン氏の発言力は一気に低下、猪木の意向も通らなくなっていく、それでも猪木は「イノキゲノム2006」に一発逆転をかけて開催へ奔走するも、負の連鎖はまだまだ終わらなかった。  

 今度は会場を予定していた日本武道館が押さえられていないことが発覚する。サイモン氏は新日本プロレス名義で日本武道館を押さえていたのだが、日本武道館は東京都の管轄でよほどの後援がない限り押さえられない会場であったことから、おそらくだが後援をしてくれるはずの新日本が協力しなくなったことで、東京都の判断で予約を取り消したとみていいのかもしれない。

  これに慌てた猪木は「アリ親娘の来日交渉、国内の地上波テレビと米国のFOXスポーツネットなど海外テレビ局との交渉、そして30周年にふさわしいカード編成のため準備期間が必要」を理由に10月に延期、スポンサー探しに奔走するが結局見つからなかったことで武道館を押さえることが出来ず、その最中に猪木のライバルである大木金太郎が死去したことで、猪木vsアリの記念イベントから大木の追悼イベントとして韓国で「イノキゲノム2006」を開催することを目論むも開催できなかった。 

  2007年新日本プロレスは全日本プロレスの協力の下で1・4東京ドーム大会が開催されるも、これまで必ずといって東京ドーム大会には顔を出していた猪木はプロレス界撤退を宣言して現れず、このままマット界から撤退するのではと思われていた。2月20日の「アントニオ猪木の誕生日を祝う会」で星野勘太郎が「こじんまりとしたプロレスが発展しても仕方ない。猪木会長の力で戻してほしい」猪木にプロレス復興の嘆願書を手渡した。しかし猪木はサイモン氏ら一部スタッフを引きずり込み新日本から飛び出して新団体「IGF」旗揚げへと動き出した。「やるからには俺が旗を振るしかない。大衆とのズレは生じるがプロレス界をどうしていくのか危機に立ち向かうには理念がないと。もう一度元気にするための軌道修正をする」と恒例だった成田会見で記者団に答え、自身の手でプロレス人気を復活させると意気込んでいたが、後になって新日本を買い戻そうとして交渉するも失敗し、ユークスが新日を他に売ろうとした事実も暴露、「許せない」と激怒したが、プロレス界復興だけでなくバングラディッシュ遠征の中止や、ロス道場とレスナーのリストラ、「イノキゲノム」を潰し、自身のやり方を否定したユークスへの怒りも入り混じっていたのだ。  

 しかしその猪木に追随したのはサイモン氏ら一部のスタッフだけで、選手らは誰も追随せず、棚橋も「もうアントニオ猪木の神通力は通じない」と猪木へ三行半を突きつけた。猪木が敢えて選手らに声をかけなかったのは、「自分が行動を起こせばユークスに対して不満を持っている選手らは自分に追随してくるはず」という考えもあったのかもしれない、実はサイモン氏を含めたIGFスタッフも水面下で選手達にIGFに移籍を促していたが、この頃になると猪木の目指すプロレスと棚橋らの目指すプロレスとで隔たりが生まれ、埋めがたいものになっていたが、新日本は猪木への気遣いもあってか声にすることはなかった。そして猪木自ら新日本を離れたことで、棚橋らは自分らの目指すプロレスへ舵を切るには今しかないと考えて、脱・猪木へ舵を切った。猪木は「レベルが低い。批判は批判で受けるけど、引き抜きなんかしない。上がりたい奴は上がればいいだけ」とコメントしていたが、"なぜ誰一人オレについてこなかったんだ"という思いもあったはず、それだけ猪木と新日本の方向性にズレが生じていたことを猪木は気づいていおらず、それをまたユークスからの圧力と決めつけるようにして怒りをぶつけていた。

 6月29日にIGFは旗揚げしカート・アングルvsブロック・レスナーによる3代目IWGP王座かけた試合を実現させ、ジョシュ・バーネット、マーク・コールマン、ケビン・ランデルマン、小川直也や田村潔司、安田忠夫などが参戦。観客動員も8426人を記録、IGFで取締役となったサイモン氏も「観客数は実数で発表していると公表したが後に旗揚げの観客数は手違いで少なめに発表してしまった」と告白するなど大成功を収めた。猪木にしてみれば"ユークスよ、オレの力を見たか"と実感していたのかもしれない。だがこの成功も一時だけのもので年数が経過すると満員と謳っても空席が目立つようになり、猪木が本来獲得を狙っていた藤田和之やジェロム・レ・バンナやピーター・アーツなどのK-1ファイターなども参戦するようになったが、猪木の目指す格闘プロレス路線は一部マニアに受けるだけでプロレスファン全体を取り込むまでには至らず、次第に観客動員も満員マークもつかないことも多くなり、猪木の影響力もDRAGON GATEやDDT、大日本プロレスなど猪木の影響力を受けない団体も台頭し始めたことで低下、IGF内にだけに及ぶだけとなっていった。  

猪木が去った後の新日本は猪木が抜けた影響だけでなく、長年に渡っての内紛に辟易していた影響もあって離れたファンも多く、新しい象徴となった棚橋も「新日本の棚橋プッシュ」と皮肉られてファンから支持されず、観客動員も苦戦強いられた。この年11月に行われた両国大会では6000人と過去ワーストを記録するも、メインで行なわれた棚橋vs後藤洋央紀戦では両者共命を削り合うような激戦を展開したことで新日本の目指すプロレスに手ごたえを掴み、この間にもユークスが新日本の経営改善に着手、様々な企画に取り組んで試行錯誤を繰り返しながらもV字回復へのきっかけを作り上げていった。経営改善に成功したユークスはブシロードへと新日本を売却、様々なテコ入れを受けた新日本はスター選手による個人商店から脱却して企業プロレスへと変わり、新しい客層を増やしたことで新たなる黄金時代を迎えようとしていた。 

  そして昨年にはマカオで行われる予定だった「猪木vsアリ40周年世界大会」が再三延期となる事態が起き、しばらくして猪木が自身の権利を持ち出してコーラルZを設立、自身が10年前に設立したはずだったIGFに絶縁を突きつけたが、今思えば10年前と同じような光景がまた猪木によって繰り返されていたのだ。この10年の間に新日本は変わったのだが、猪木だけは10年間時が止まったままなのかもしれない。