全日本プロレスで流血大王の異名で活躍したキラー・トーア・カマタが亡くなって今年で10年目となる。 カマタは最初の来日は1975年の国際プロレスでラッシャー木村の保持するIWA世界ヘビー級王座に挑戦、金網デスマッチでも対戦するなど大活躍した。 1978年に全日本プロレスに円満移籍、6月1日の秋田でジャイアント馬場さんの保持するPWFヘビー級王座への挑戦した。当時の馬場さんはPWF王座を38度に渡って防衛するなど長期政権を築いていたが、持病の坐骨神経痛もあって前年度の10月以降は防衛戦を避けていた。
しかし防衛期限である6ヶ月がまもなく過ぎ、防衛戦が出来なかったら王座剥奪となるため、馬場さんは仕方なく防衛戦を行うことになり、挑戦者にカマタを指名。馬場さんがカマタを指名した理由はビル・ロビンソンとの防衛戦も控えているのもあり、ロビンソン戦へ向けての試運転と、カマタだったら勝てるだろうという判断があったからだった。
試合はカマタの鉄階段攻撃やコーナーからのボディープレスを喰らった馬場さんは腰にダメージを負い、再度の場外戦もカマタが馬場さんの腰を何度も殴りつける。これに馬場さんが怒り放送用の放送用のマイクケーブルで首を絞め、エプロンで何度もカマタをチョップで乱打するなど暴走、冷静さを失った馬場さんをジョー樋口レフェリーが制止に入ったが、馬場さんは無視したため、試合終了のゴングが鳴って馬場さんの反則負けとなり、PWFルールで王座転落、格下と思っていたカマタ相手に自らの暴走で長期政権に終止符を打ってしまった。
しかしカマタは12日の愛知県一宮大会でロビンソン相手に初防衛戦を行うも、ワンハンドバックブリーカーの前に敗れ王座転落で短期政権に終わり、その後PWF王座はロビンソンからアブドーラ・ザ・ブッチャーを経て再び馬場さんの手に戻った。
その後カマタはベルトを奪還した馬場さん2度に渡って挑戦したが全て返り討ちとなって、カマタは2度と王座に返り咲くことはなく、次第にスタン・ハンセンやブルーザー・ブロディの台頭もあってベルト戦線に浮上することはなかった。
カマタは全日本ではブッチャーのパートナーを務めるなど脇役として扱われたが、カマタの金星は脇役が僅かながらも輝いた瞬間だったかもしれない。
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