新日本プロレス 2004年11月13日 大阪ドーム事変 番外編 崩壊危機のZERO-ONEを新日本がリングジャック

 話は戻って2004年10月8日、両国国技館に長州力が突如出現、当時の長州はWJプロレスが活動停止になりリキプロに属していた。石井智宏を引き連れた長州は「外からやってきた俺がど真ん中にたった。何をやってるんだ新日本!」とアピールすると、永田裕志は登場すると長州は「天下を取り損ねた永田君、良く俺の前に立ったな。今度来るときにはパワーホールを全開で流せ」と挑発、天山広吉も駆けつけるが、長州はリングを後にする。  長州復帰は当時執行役員だった上井文彦氏の仕掛けで、誰にも長州が登場することは明かさず、登場直前で永田に告げた。案の定永田が反応し永田vs長州の抗争が勃発かと思われたが、この直後に上井氏は新日本を退社、長州の存在が宙ぶらりんとなってしまう。   


11月13日大阪ドームのに長州のカードが組まれ、蝶野正洋と組み永田、パートナーには長州に対して面白くない感情を持っていた西村修が起用され、試合形式もイリミネーションマッチとされた。試合は開始と同時に西村が猛ラッシュをかけるが、蹴り上げた長州はサソリ固めを狙う。しかし西村はアキレス腱固めで切り返すと、長州はロープに逃れるが西村は離さない。一旦分かれると西村がドロップキックを狙うが、かわした長州はリキラリアットを連発、西村は血反吐なのか口から血を流しながらダウンしそのまま立ち上がれずKO負けとなる。しかしその長州も蝶野と同士討ちになると、永田のサンダーデスドライバーを喰らってフォール負けを喫し、長州は蝶野にもリキラリアットを浴びせると、永田が蝶野にサンダーデスドライバーで3カウントを奪い、永田の一人舞台で勝利となった。 


   しかし事件はここから始まっていた。長州は自分の試合を終え、同日に大阪府立体育会館第二競技場で行われていたZERO-ONEに出場するために移動すると、セミを終えた蝶野が獣神サンダー・ライガー、中西学、邪道、外道らブラックニュージャパンと共に移動バスで長州を追いかけ、府立体育館に乗り込み、そのままZERO1-ONEのリングをジャックし、ZERO-ONE勢と乱闘を起こす、蝶野が長州に対して「どうしてこんなところで試合をしてやがるんだ」と挑発して去っていくと、長州は「これは俺と新日本の問題、でもあいつらがここに土足で上がってきたことは許されないだろ、大谷」と大谷に共闘を持ちかけ、新日本との対抗戦に持ち込もうとしたが、大谷「個人的な闘いならヨソでやってくれ」と拒絶、ファンも支持した。バックステージに戻った長州は大谷に「申し訳ない。お前の言うとおりだ。悪かった。俺のせいだ。ごめん」と頭を下げた。  

 

 このときのZERO-ONEは橋本真也による放漫経営によって莫大な負債を抱えて崩壊に危機に晒されており、橋本自身も左肩の負傷だけでなく、経営を中村祥之氏らフロントに任せきりにして、現実逃避するかのようにプライベートにのめり込んでしまっていたが、橋本はZERO-ONEを一旦倒産させ、中村氏を外して新しい側近らと共にアパッチプロレス軍と合併して新会社を設立し、蝶野とのルートで新日本との対抗戦に持ち込もうと画策していた。 橋本は選手らに計画を明かして自身に追随するかを迫り、橋本はみんな追随すると思っていたが、選手達は誰も橋本に追随しなかった。大谷らがなぜ橋本に追随しなかったのか明らかにしてないが、この計画は中村氏を追い出して、橋本の新たなる側近を中心とした計画だったことから、「橋本は慕っているが、もうついていけない」だったのではないだろうか・・・大阪大会2日前の11日の後楽園大会では大谷が「オレたちは橋本真也に捨てられたんじゃねえ。旅立ったんだよ。」と橋本と袂を分かったことを観客にアピールし、選手らが橋本と決別していたことが明らかになっていた。  

 対抗戦の話を進めたい蝶野は試合を出来ない橋本に代わって長州を旗頭にして、新日本vsZERO-ONEを推し進めようとして、ZERO-ONEの会場に乗り込んだ。だが大谷はファンの前で蝶野らを拒絶した。大谷らにしても蝶野と長州の敷いたレールに乗ると、対抗戦を敷いた橋本のレールに乗ることになることから、新日本との対抗戦は飲めなかったのかもしれない。結局蝶野の殴りこみは空振りという結果となり、長州もあくまで新日本だけでなくZERO-ONEの人間ではないため無理強いすることは出来なかった。  

 

 大阪大会からしばらくして橋本が弁護士立会いの元でZERO-ONEの活動停止を発表、大谷は中村祥之氏らと共に新団体ZERO-ONE MAX設立へと動き、2005年1月に再スタートを切った。  大谷らと袂を分かった橋本は翌年2005年7月11日に脳幹出血に倒れ、そのまま急死、橋本の葬儀には大谷らZERO1勢も駆けつけるが、新しい側近たちによって焼香も許されず、棺すら担ぐことさえ許されなかったが、夫人だったかすみさんの手引きで遺体には対面することが出来た。 


   そして大阪ドーム大会が行われた翌年の2005年11月14日、猪木が保有する新日本の株式を全てユークスに売却、これと共に猪木体制の新日本は終焉を迎えた。2004年11月13日の大阪ドーム大会は今思えば、新日本と猪木の方向性の違いが示された大会だったのかもしれない。

伊賀プロレス通信24時

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