倉持アナ「ブルーザー・ブロディとジミー・スヌーカが入場して参りました。おっと、誰でしょうか?その後ろにはウエスタン・ハットを被った大型の男がいますが……。あ、スタン・ハンセンだ!」
山田隆 「ハンセンですよ!」
倉持「スタン・ハンセンがセコンド!大ハプニングが起きました!」
1981年12月13日 「世界最強タッグ決定リーグ戦」の最終戦が行われた全日本プロレス蔵前国技館、メインイベントでこの年の最強タッグの優勝をかけてドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンクのザ・ファンクスが、秋から抗争を繰り広げているブルーザー・ブロディ、ジミー・スヌーカー組と対戦するが、ブロディ組のセコンドに新日本プロレスのトップ外国人選手だったスタン・ハンセンが登場する事件が勃発、館内は騒然となった。当時は新日本プロレスと全日本プロレスの間に外国人選手による引き抜き合戦が勃発していたが、アントニオ猪木の好敵手でもあり、トップ外国人選手であるハンセンの全日本マット登場は、新日本を震撼させた。
なぜハンセンは全日本に移籍したのか?話は遡って1981年5月8日の新日本プロレス川崎市体育館に、全日本プロレスのトップ外国人選手だったアブドーラ・ザ・ブッチャーが現れ、新日本が提唱していたIWGPに賛同という名目で新日本に参戦を表明、これを発端に新日本と全日本の間に外国人選手の引き抜き合戦が勃発した。ブッチャーを引き抜かれた馬場は「新間の野郎!」と怒り、地下室にトレーニングルームに入ってベンチプレスをガンガン始めたという。新日本プロレスは初代タイガーマスクのデビューから絶大な人気を誇るようになり、猪木の片腕で営業本部長である新間寿氏も「プロレスブームではなく、新日本プロレスのブームなんです」と言わしめるほどだった。一方ライバル団体の全日本プロレスは旗揚げから放送されていたテレビ中継が土曜8時から土曜夕方に降格され、観客動員も低迷し経営も苦しい状況だった。そこで全日本の経営危機をチャンスと見た新日本が攻勢をかけ、その第一弾としてブッチャーを引き抜きにかかったのだ。
しかしブッチャーを引き抜かれて怒った馬場だけではなく、ブッチャーを全日本にブッキングしていたザ・ファンクスも激怒、"猪木は馬場のビジネスを終わらせようとしている"と危機感を抱いたファンクスは自分の門下生でもあり、新日本プロレスのトップ外国人であるハンセンを引き抜くことを考え、馬場にハンセン引き抜きを提案し、馬場も同意した。テリーはハンセンとコンタクトを取った、ハンセンもアントニオ猪木と名勝負を繰り広げていたが、行き詰まりを感じ始めていた矢先だった。ハンセンは1981年6月極秘裏にダラスを訪れた馬場、元子夫妻と会談、話し合いにはテリーは立ち会わなかった。馬場はハンセンに全日本へ参戦して欲しいと持ちかけると、ハンセンも承諾したが新日本とは12月まで契約が残っているから全てクリーンにしてから移籍したいとすると、身辺をクリーンにした上での移籍は馬場さんも望むことでもあったことから承諾、密約を交わすことに成功したが、移籍は誰にも漏れないようにトップシークレットとされた。
7月3日に全日本熊谷大会ではハンセンと同じ新日本のトップ外国人選手だったタイガー・ジェット・シンが乱入、シンも全日本での商売敵であるブッチャーが移籍したことでプライドを傷つけられたことでの全日本移籍だった。その後新日本も全日本の所属だったタイガー戸口やディック・マードックを引き抜けば、全日本もシンの相棒である上田馬之介、チャボ・ゲレロを新日本のタイトルであるNWAインタージュニア王座ごと引き抜くと一進一退となるが、まだ全日本はハンセンという切り札を隠したままで、新日本も新間氏が「まもなく全日本は潰れるよ」とハンセンに全日本に移籍しないように契約更新を求めたが、ハンセンは話をはぐらかせ契約更新を先送りにし、新間氏も既に全日本とハンセンが密約を結んでいたことも全く気づいてなかった。
ハンセンは11月から開幕する「第2回MSGタッグリーグ戦」に参戦するが、一番懸念していたことがあった。それは盟友であるブロディの存在で、ブロディとは若手時代から苦楽を共にしてきた仲だったが、その分ブロディのプライドの高さも充分にわかっていた。ハンセンはあらかじめブロディの了承を得ておこうとコンタククトを取り、ちょうど新日本も全日本も愛知県内で興行していた11月30日に二人は再会するも、ハンセンから全日本移籍を打ち明けられたブロディは不快感を示した。しかしハンセンはブロディとのタッグを再結成できるなどブロディを説得、ブロディも盟友であるハンセンの頼みとあって、ハンセンが全日本に移籍することは秘密にすると約束したものの、ハンセンを誘ったファンクスに対しては不満を抱えたままだった。
12月10日に「第2回MSGタッグリーグ戦」が終了となり、新日本もハンセンは全日本に移籍しないと安堵したが、11日にハンセンはホテルをチェックアウトして姿を消し、全日本側が用意したホテルへ秘かに移った。ホテルに新日本関係者がハンセンを成田空港まで送るために迎えにいったが、チェックアウトしたと知らされるも、新日本側は「一日早く予定を切り上げて帰った」としか考えていなかった。ハンセンは当初13日に帰国する予定だったが、新日本側はハンセンは自分で予定を切り上げて1日早くアメリカへ帰ったとしか考えていなかった。そして全日本の興行が行われている横須賀にハンセンが現れた。ハンセンは、「久しぶりにブロディと話したいから寄った。明日は予定通りアメリカに帰るから」と会場の中へ入っていったが、この時点でハンセンが全日本に引き抜かれたことは明白だった。
そして1981年12月13日の蔵前大会、ハンセンが登場すると館内のファンはハンセンコールで歓迎を受けた。ハンセンがブロディ組のセコンドとして姿を現すシーンは馬場さんとファンクスが考えたものだったが、狙い通りに大きなインパクトを与えた。試合は五分の攻防もブロディは自分抜きでハンセンを引き抜いたファンクスに怒りをぶつけて徹底的に痛めつけた。試合は終盤にドリーがスヌーカーをスピニングトーホールドで捕らえている間に、場外でブロディがテリーをハンセンめがけてホイップすると、ウエスタンラリアットが炸裂、テリーはKOされ、この時点でハンセンが全日本に上がる既成事実を作り上げてしまう。そして孤立したドリーをブロディ組が集中攻撃を与え、最後は懸命に粘るドリーをブロディがキングコングニードロップで3カウントを奪い、ブロディ&スヌーカーがこの年の最強タッグを優勝。優勝トロフィーを手にするブロディ、ハンセン、スヌーカーはドリーを袋叩きにする。これに怒った馬場&ジャンボ鶴田の師弟コンビが乱入して馬場はハンセンの脳天チョップを乱打して流血に追い込むなどして大乱闘となる。ブロディとハンセンが引き揚げた後で馬場さんはファンにハンセンを迎え撃つことをアピールした、後年テリーは自分の中でベストマッチの一つとしていた最強タッグは修羅場の中で幕を閉じた。
同日に新日本プロレスでは藤波辰己の結婚披露宴が行われていたが、披露宴に出席していた新間氏はハンセンが全日本のリングに乱入したことを知らされ愕然としていた、そして会見でハンセンを引き抜いた全日本に対して怒りを露わにしたが、後の祭りだった。 年明け早々新間氏は週刊ゴングの竹内宏介氏を通じて馬場さんに会談を申し入れ、竹内氏はハンセンの全日本移籍第1戦が行われた1982年1年15日の木更津大会で馬場に打診、馬場も応じると新間氏も猪木も出席させることを提案、2月7日のホテルニューオータニで馬場-猪木会談が実現、新日本が休戦を申し入れたことで、8ヶ月に及ぶ引き抜き抗争は一旦終止符が打たれたが、もし引き抜き抗争が継続されるなら馬場はアンドレ・ザ・ジャイアントや新日本では神様として崇められていたカール・ゴッチにも触手を伸ばすつもりだったという。
1982年2月4日に東京体育館で馬場はハンセンとPWFヘビー級王座をかけて対戦したが、1月から日本テレビから松根光雄氏が派遣され社長に就任、馬場は会長に棚上げされ、日テレから経営建て直しを厳命された松根氏は、観客動員や視聴率の低迷の責任は全て馬場にあるとみて、全日本の若返りを図り、エースの座とプロモート全てを鶴田に譲ることを含めて、馬場に引退勧告を突きつけており、ハンセンに敗れたら馬場は引退というムードの中での対戦となったが、試合は両者反則で引き分けに終わったものの、馬場はハンセン相手に互角以上に渡り合い、馬場引退ムードを一掃させることに成功、松根氏も馬場の必要性も認めざる得なかった。後年新間氏は「引き抜きのメリット?それはマンネリ刺激と馬場さんを長生きさせたことだよ。今思うと新間がいたおかげでレスラー生命が延びた。新間の野郎!と怒ったことで活力が出たから」と語っていたが、新間氏の全日本潰しだけでなく、引退勧告を突きつけた新体制への怒りも馬場の復活への活力にもなった。そう考えるとハンセンの引き抜きは、全日本だけでなく馬場にとって起死回生の一打だったのかもしれない。
その後全日本は馬場の愛弟子である佐藤昭雄がブッカーに就任、馬場を補佐しつつ一歩退かせて、鶴田と天龍の時代へと移行させていった。1983年9月3日、千葉公園体育館大会で馬場はハンセンのウエスタンラリアットに敗れてPWF王座を明け渡し、ジャンボ鶴田がインターナショナルヘビー級王座を獲得したことで、再び世代交代が叫ばれたが、1984年7月31日に馬場は蔵前国技館大会でハンセンを首固めで破り王座を奪還。しかしその1年後の1985年7月30日の福岡スポーツセンター大会でハンセンのバックドロップを喰らい敗れ王座の奪還を許したが、この試合を最後に馬場はシングル王座戦線から撤退、馬場vsハンセンが行われたのもこの試合が最後となった。
(参考資料参考資料Gスピリッツ Vol.27、日本プロレス事件史Vol.8 スタン・ハンセン著「魂のラリアット)
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