崔領二のランズエンドがアジアヘビー級王座を復活させることを発表した。アジアヘビー級王座はインターナショナルヘビー級王座よりも歴史が古く、権威のあるベルトだったが、扱いは良いものではなかった。
アジアヘビー級王座は1955年11月22日に日本プロレスがアジア選手権大会が開催された際に創設され、キングコングを破った力道山が初代王者となり、日本プロレスの看板タイトルになったが、1958年8月に力道山がルー・テーズを破ってインターヘビー王座を持ちかえると、インターヘビー王座が看板タイトルとなって、アジアヘビー王座はNo.2の王座に降格、どちらも力道山が保持しつづけたが、インター王座は一線級の選手、アジア王座は二線級と使い分けて防衛戦を続けていた。
1963年に力道山が急逝すると、両王座とも「力道山1代限り」として封印され、日プロは看板タイトルはアジアタッグ王座だけの状態となったが、ジャイアント馬場が凱旋帰国してから「馬場を力道山の後継者として、インター王者を継がせるべきだ」という機運が高まった。これを受けて日プロはインターナショナル王座の封印を解除を決意するも、この頃には両王座を管理していた力道山本家である百田家と絶縁していたこともあって、日プロはまだ加盟申請中だったNWAを担ぎ出して、インター王座はNWA認可日本プロレスコミッションの王座として復活、ベルトも新しく製作しディック・ザ・ブルーザーとの決定戦で破った馬場が王者となった。現在インターナショナル王座のベルトは馬場家が管理しているが、最初に馬場が巻いたことから実質上馬場ベルトとなる。
1968年11月9日にはアジア王座も復活、大木が地元である韓国・ソウルで王者となったが、なぜ復活したのか経緯は未だに明かされていないが、この頃の大木は日プロサイドに「2代目力道山襲名」を当時の社長である豊登に迫り、また国際プロレスへの移籍を考えていたことから、大木を黙らせるという意味合いもあって、No.2のベルトあるアジア王座を巻かせたのかもしれない。アジア王者となった大木は1971年に一旦ビル・ドロモに明け渡したものの二線級の選手だけでなく、ドン・レオ・ジョナサン、クラッシャー・リソワスキー、キング・イヤウケア、ブルート・バーナードなど一線級相手にも防衛してきたが、東京プロレスから復帰した猪木の台頭もあって、No2のベルトを保持しながらも、大木は団体ではNo3のポジションに下がり、猪木がUNヘビー級王座を持ち帰ったことで、アジア王座もNo3の王座に格下げとなっていく。
1971年12月にクーデター事件が起き、猪木が日プロを離脱してUN王座を返上すると、1972年7月には馬場も日プロを離脱、この時に馬場は馬場ベルトだったインターナショナル王座を持って離脱しようと目論んだが、管理していた日プロコミッションが許さず、大木との防衛戦を指定すると、いらぬトラブルを避けた馬場は渋々王座を返上、空位となったインター王座はボボ・ブラジルを破った大木が奪取、アジア王座を一旦棚上げにして、インター王座の防衛戦を優先する。しかし日プロが崩壊し大木は馬場が旗揚げした全日本プロレスに合流、アジア王座は日プロが崩壊と共に封印され、インター王座はNWA認可のベルトであり大木個人の所有の扱いで存続されたが、全日本には既に馬場が新設したPWFヘビー級王座が存在したことから、全日本内でのインター王座の防衛戦は許されず、韓国内での防衛戦に留まった。
そして1976年10月にアジアヘビー級王座がPWFの認定のベルトとして封印から解除された。解除された理由は同時期に新日本プロレスが「アジア・リーグ」を開催し、新日本独自でアジアヘビー級王座を新設したことに対抗しての処置で、日プロ最後の社長だった芳の里に使用料を払って復活させたのだ。前王者だった大木がグレート小鹿を破り王座を奪取、だが1年後に馬場のPWF王座とダブルタイトル戦を行い大木は敗れ王座を明け渡し、アジアヘビー級王座は再び封印された。再封印された理由は新日本版のアジアヘビー級王座も1年後には防衛戦が行われなくなり、大木自身もまだインターヘビー級王座を保持していたことから、不必要とされたのかもしれない。
大木は1979年に国際プロレスの所属となり、全日本で許されなかったインターヘビー級王座の防衛戦を日本国内で行ったが、半年で大木が国際プロを離脱し全日本にUターンすると、全日本はNWA会員でない国際プロでNWA認可のベルトの防衛戦を行ったとして、大木にインター王座返上を勧告、大木は受け入れ、再封印されたアジアヘビー級王座との交換で大木はインター王座を手放したが、実際は事業の資金繰りに困った大木に、全日本と日本テレビがアジアヘビー級王座+金銭で取引を持ちかけ、大木が応じてインターヘビー王座を手放したことが定説になっている。
やっと馬場ベルトを取り戻した馬場は全日本のリングでインターヘビー級王座決定トーナメントを開催したが、ブルーザー・ブロディに敗れてトーナメント途中で脱落、優勝したドリー・ファンク・ジュニアが新王者となったが、この頃から馬場はジャンボ鶴田にインター王座を巻かせたいという考えを持ち始めていた。インター王座を手放した大木はトーナメントには参加せず、小鹿との王座決定戦で再びアジアヘビー級王者となったが、この頃から頭突きの乱発から来る首の持病に苦しめられ、視神経の異常を訴えるようになっていた。大木は1982年5月に韓国で阿修羅原との防衛戦を行ったが、この試合を最後に大木はマット界から消え事実上の引退、アジアヘビー級王座の所在も不明となった。
所在不明となったアジアヘビー級王座だったが、大木の愛弟子の一人であるイ・ワンピョ(李王杓)が獲得し、現在も自宅に飾られていることが2017年11月5日発行の雑誌「GスピリッツVol.45」で明らかになったが、どの経緯で獲得したのか、相手や場所も本人も憶えていないという。そしてタイトル名だけはランズエンドが力道山次男である百田光雄から了承得て使用されることになり、ベルトも新調され、PWF会長となったドリーによって再びPWF公認のベルトとして復活することになった。
長年に渡って流浪してきたアジアヘビー級王座は、崔領二のランズエンドによって掘り起こされ、甦ろうとしている。
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