1994年1月17日5時46分52秒、就寝していた自分だったが、激しい揺れで起き、思わず布団を被った。揺れが収まると震度を確かめるためにテレビをつけた。ニュースは神戸は震度7と報じ、阪神・淡路大震災を知った。
1995年の全日本プロレスは93年から三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太を中心とした四天王プロレス時代へと突入、三沢を中心とした四天王が三冠統一ヘビー級王座、世界タッグ王座を巡って激しい攻防を繰り広げていたが、1994年7月28日のに三沢はスティーブ・ウイリアムスに敗れ、2年にわたって保持してきた三冠王座を明け渡し、9月3日には小橋が三冠王座に初挑戦。この頃の小橋はチャンピオンカーニバルの公式戦では外国人トップに君臨していたスタン・ハンセン破るなど、トップの一角に食い込むほどに成長していたが、小橋自身も生涯でのベストバウトと言わしめた試合は41分23秒の激闘の末、ウイリアムスの殺人バックドロップに敗れ王座は奪取ならなかったが、三冠奪取への手応えを掴んだ。だがウイリアムスは10月22日に川田のジャンピングハイキックに敗れ王座から転落、三冠王座は川田の手に渡った。
1994年の最強タッグは小橋は今回も三沢と組んでエントリーとなったが、リーグ戦終盤に1995年1月19日、大阪府立体育会館で三冠統一ヘビー級選手権が発表され、川田への挑戦者は小橋が指名された。大阪で三冠選手権が組まれるのは1989年4月20日に行われたジャンボ鶴田vs天龍源一郎戦以来で約6年ぶりで、四天王プロレス時代になってからは三冠選手権は武道館を中心にして行われていたが、ファンから大阪でも開催して欲しいという要望もあり、また大阪府立は新日本が最も強い会場とされていたことから、大阪のファンを沸かせるにはこのカードしかないという判断で川田vs小橋戦が組まれた。だが挑戦者に選ばれた小橋は乗り気にはなれなかった。理由は最強タッグ中に右膝の肉離れを起こしており、目の前の試合に出れるかどうかわからない状況だった。それでも小橋は目の前の試合をこなし、三沢とのタッグで最強タッグ2連覇を達成するも、気持ちが晴れないまま1995年を迎えた。
小橋は三冠選手権が組まれた新春ジャイアントシリーズに入ると、1月7日の大分でウイリアムスとシングルで対戦、この試合はプロモーターの要望で実現した試合だったが、試合時間が30分だったこともあってフルタイムの引き分けで決着がつかずも、試合後にウイリアムスが小橋に歩みより、親指を掲げてエールを送ったことで、小橋自身も前向きとなり19日の三冠戦を迎えるはずだった。
震災当日の全日本勢は翌日に愛知県田原町大会を控えていたこともあってオフだったが、三冠選手権直前の震災発生は選手やスタッフを始め動揺しており、関西出身の小橋も家族の安否を心配していた。幸い京都に住んでいた母には連絡が取れたが、兵庫に住んでいた祖母とは連絡が取れなかった。そして府立体育会館は震災の影響がなかったことがわかったが、全日本内部でも開催にあたって「プロレスをやってる場合じゃないだろ!」もあり大多数を占め、中止に傾きかけていた。だが馬場は「大阪に近い神戸で大地震が起きたからこそ、決行すべきことじゃないかな。今、オレたちにできることと言ったら、それしかないものなァ」と反対意見を押し切ったことで決行されることになった。しかし小橋はニュース報道を見て"住む家を失った人や、大切な人が失った人が多くいる中で、通常のプロレス興行を行っていいのだろうか?”"僕と川田さんの三冠戦を「ぜひ見たい」とチケットを買ってくれた人たちが、果たして無事会場へ来ることができるのか・・・?”と葛藤を抱えるようになった。
大会当日、当初入る予定だったTV中継は震災報道に回されたことでノーテレビとされ、大阪での三冠戦を記念したイベントも企画されたが自粛となり、大会も兵庫県南部地震チャリティ興行として開催され、チケットを持っていながらも来られなくなったファンには払い戻し、同大会を収録したビデオを配布するという措置が取られた。会場となった大阪府立体育会館には関西在住のファン、東京から駆けつけながらも新幹線の線路も寸断されていたため、名古屋駅まで来てJRの在来線や近鉄特急など私鉄を乗り継いできたファンが駆けつけた。そして自分も阪神高速がなんばICまで走っているとわかると自家用車に乗って大阪へ向かった。しかし奈良を通過するあたりから被災地へ送る荷物や簡易トイレを積んだトラックが多く目立つようになり、なんばに近づくと渋滞となったが、ようやく府立体育会館へ到着も、当時府立体育会館前にあったローソンにはパンや弁当は神戸から運送されてくるはずだったため販売しておらず、空は冬空だったせいもあって大阪には暗い雰囲気となっていたこともあり、改めて関西に震災が起きたことを痛感したが、その状況の中で府立体育会館には5600人満員のファンが駆けつけた。"誰もが心からプロレスで生きる活力を得ようと刮目している""プロレスの力を見せたい!””絶対に負けてたまるか!と姿勢を見ている人たちに伝えなくてはいけない!"という気持ちを固め、メインのリングに上がった。
序盤から川田がいきなり投げ放しジャーマンを仕掛けてから一気に試合が動き出し、川田は小橋の痛めている右膝めがけてスライディングキックを発射してから徹底した右脚攻めで先手を奪う。しかしニークラッシャー狙いを逃れた小橋はソバットで川田を屈めさせると、後頭部めがけてギロチンドロップを投下してしてから首攻めで反撃、フライングショルダータックルを浴びせた小橋はスリーパーで絞めあげるが、川田は小橋をコーナーにぶつけて脱出すると逆水平やエルボーの連打を浴びせ、小橋の串刺しニー狙いをキャッチしてそのまま倒す。小橋は川田のブレーンバスター狙いを投げ返し、何度もコーナーにぶつけるが、意地で耐えた川田はドロップキックを発射、両者ダウンの後で逆水平を浴びせ、小橋は意地で耐え抜くも、川田はノド笛チョップを浴びせ、さすがの小橋もノド元を押さえてうずくまってしまう。
呼吸が思うように出来なくなった小橋はたまらず場外へ逃れるが、川田はエプロンからのフットスタンプ、リングに戻ってからセカンドロープからのフットスタンプ、フェースロックからサッカーボールキックと攻め立ててからスリーパーで捕獲、胴絞めへ移行するなど小橋を追い詰めにかかる。川田は投げ放しパワーボムから急角度でのバックドロップで小橋を投げると、顔面へのキックからパワーボムで勝負に出るが、リバースした小橋は川田を場外へ放り投げ、鉄柵に叩きつける川田をカウンターでショルダータックルを浴びせるも、川田が先にリングに戻ると、エプロンに立った小橋にロープ越しのラリアットを放つ。川田は小橋が再度エプロンに戻ったところで再びラリアットを放ったが、ガードした小橋はチョップを浴びせ、怯んだ川田にコーナーからフライングショルダーを発射、川田は左足でのキックで迎撃したが左足を痛めてしまい、これを逃さなかった小橋はすかさず川田の左足に低空ドロップキックを発射してから左足攻め、そして足四の字固めで捕獲し、場外戦でも本部席めがけてのニークラッシャー、リングに戻ってからテキサスクローバーホールドと川田の左足に大ダメージを与えていくが、川田も小橋の右膝にローキックを浴びせて譲らず、前から逆水平、後ろからサッカーボールキックのコンポ攻撃から、起き上がり小法師式逆水平で再び自身の流れを戻す。
川田は再度パワーボムを狙うが、小橋はリバース、川田は前蹴りの連打を放っていくが、小橋もラリアットで応戦して両者ダウン、小橋が先に起きて袈裟切りチョップの乱打から逆に小法師式逆水平、そして投げ放しでのパワーボム、逆水平からロープへ振るも、川田がへたり込むようにダウンする。小橋は先ほどの仕返しとばかりに高角度のバックドロップを決めるが、川田も逆水平で応戦すれば、小橋もドロップキックで返し、フェースクラッシャーから後頭部ギロチンドロップの連打、そしてムーンサルトプレスで勝負を狙う。
しかし川田は反対側のコーナーへと転がり込んで逃れ、小橋はDDTの連打で突き刺すと、ムーンサルトプレスを投下するが、かわされて自爆、両者は逆水平を打ち合い、小橋がマシンガンチョップを放つと、川田はカウンターでの逆水平を小橋のノド元に浴びせ、ラリアットをブロックする小橋にジャンピングハイキックを炸裂させ、両者ダウンの後で先に起きた川田はもう一発ジャンピングハイキックを炸裂させてからカバーも、小橋はカウント2でキックアウトする。
川田はパワーボムを決めるが、また小橋はカウント2でキックアウト、再び急角度でのバックドロップを決めるが、小橋はカウント2でキックアウトする。川田はジャンピングハイキックやパワーボムがダメならとストレッチプラムで捕獲して絞めあげ、心を折らんとばかりに捻じ切ってからカバーするも、これも小橋は必死でキックアウトする。
川田はジャンピングハイキックを狙うが、かわした小橋はフォアアームを放ち、ストレッチプラムを狙う川田を切り返してローリングクレイドルで回転、小橋はスピンキックを狙う川田をキャッチしてから倒しランニングネックブリーカードロップを決めると、パワージャックからムーンサルトプレスを投下、勝負あったかに見えたが、川田はカウント2でキックアウトする。
小橋はセカンドロープからのダイビングギロチンを投下するが、川田がかわし、小橋はジャーマンを狙うが、逃れた川田は浴びせ蹴りを連発、時間もいつの間にか50分が経過していた。川田は投げ放しドラゴンスープレックスで投げると、ステップキックからのバックドロップは小橋が体を入れ替えて浴びせ倒し、川田の逆水平をかわしてジャーマンスープレックスホールドを決めるがカウント2で決め手にならない。小橋は再度ジャーマンを狙うが、川田はジャンピングハイキック、踵落としで阻止し、投げ放しジャーマンで投げると、逃れようとする小橋に再度ジャーマンで投げる。そしてパワーボムを狙うが、小橋は必死で堪えたところで試合終了のゴング、時間切れの引き分けとなった。
試合後に川田が小橋に歩み寄り手を差し伸べた、川田も60分フルタイムというものは初めての経験で。小橋へ握手は健闘を称える意味ではなく、60分フルタイムを戦い抜いた充実感から出た握手だった。館内は全日本コールが巻き起こっており、二人の試合を見て感涙するファンもいた。川田は「当時は選手のコールよりも全日本コールが起きた方が嬉しかった」と答え、小橋も「プロレスラーはリングの上でしか勇気付けられないから」と答えていたが、二人が戦っていた60分間は間違いなく、震災があったことを忘れさせた60分間であり。観戦していた自分も暗い雰囲気に一筋の光明を見た気分となっていた。川田vs小橋だけでなく全日本プロレスの試合がいろんな力を与えてくれた瞬間でもあった。
新春ジャイアントシリーズを終えた馬場は元子夫人の実家である明石が震災の被害に遭ったことで側近だった和田京平や仲田龍、一部選手らを引き連れて家の片付けを向かうと、関西地区の被害を目の当たりにした馬場は、ガスコンロや生活用品を買い集めた後関西地区に住んでいる全日本のファンクラブ「キングスロード」会員の名簿を取り寄せ、一軒一軒へ馬場自らが出向き、生活用品を差し入れて、避難所を訪れ被災者を激励にまわっていた。
自分も自宅へ向かう車の中でラジオを聴いていたが、震災の報道は続いていたが、明けない夜明けなどない、明日はまた来ると思い帰路へついた。1995年1月19日大阪で行われた川田vs小橋は今でも自分の中ではベストバウトの中でNo.1の試合であり、またプロレスが与える力とは何なのかというものを考えさせられた試合だった。
<参考資料 ベースボールマガジン社「四天王プロレスFILE」小橋建太著「熱狂の四天王プロレス」より>
0コメント