1990年新日本プロレスからトレードという形で全日本プロレスへと移籍したスティーブ・ウイリアムスは2月から開幕する「90エキサイトシリーズ」に参戦、テリー・ゴーディとの殺人魚雷コンビを結成し、21日の後楽園ホールでの開幕戦ではジャンボ鶴田&高野俊二組と対戦して、ウイリアムスがオクラホマスタンピートで俊二から3カウントを奪い初戦を勝利で飾った。
ウイリアムスは1986年7月に新日本プロレスに初来日したが、アントニオ猪木とタッグマッチで対戦した際に殺人バックドロップを決めて半失神状態に追い込んでしまい、2度目の来日ではシングルで対戦もスープレックスで投げた際にまた半失神状態にしてしまうなど、ピークの過ぎた猪木相手に手がけん知らずで痛めつけたしまったことで、実力がありながらも新日本ではビックバン・ベイダーやクラッシャー・バンバン・ビガロに次いで3番手に置かれるようにあっていたが、新日本でもてあましていたウイリアムスを全日本が目をつけた。
この頃の全日本はスタン・ハンセンが外国人トップで天龍源一郎との龍艦砲を結成しており、1989年度の世界最強タッグでは全勝優勝を果たしていた。全日本は外国人エース候補にはテリー・ゴーディを考えていたが、当時のコーディはパートナーが不在で前年度の最強タッグではビル・アーウィンと組んでエントリーしたものの、芳しい成績を残せなかったこともあり、ゴーディに更なる成長を求めるためには同格のパートナーが必要と考えていた。ゴーディとウイリアムスはアメリカMSWAで何度も対戦しており、私生活でもウマが合った。まさしくゴーディにとってもうってつけのパートナーだった。
初戦を圧勝で飾った殺人魚雷コンビは破竹の勢いで連勝を続け、3月2日の露橋スポーツセンターでは前世界タッグ王者組である鶴田&谷津嘉章組と対戦し、ウイリアムスがオクラホマスタンピートで谷津を降し完勝。3・6武道館では龍艦砲の保持する世界タッグ王座へ挑戦する。好勝負が期待されたが肝心の天龍が24日の一宮大会で鶴田組との6人タッグ戦で右足首を負傷、鶴田のリバースインディアンデスロックでギブアップしてしまい、捻挫と診断された天龍は2戦欠場して復帰したが右足首の具合が芳しくないまま武道館大会を迎えてしまった。
試合は殺人魚雷コンビが天龍を狙い撃ちにして先手を奪い、龍艦砲もハンセンが盛り返してゴーディを捕らえて流れを変えようとするが、足首を負傷している天龍に覇気がなく、次第に殺人魚雷コンビの流れへと戻っていく。そして天龍の延髄斬りがハンセンに誤爆してしまうと、殺人魚雷コンビは徹底的に天龍の右足首に集中砲火を浴びせ、最後はウイリアムスの殺人バックドロップからリバースインディアンデスロックで捕獲、ハンセンもイス攻撃でカットに入ったが、先に天龍がギブアップして間に合わず、殺人魚雷コンビが王座を奪取、試合後には天龍の不甲斐なさに怒ったハンセンが天龍に襲い掛かって仲間割れとなり、セミファイナルでバリー・ウインダムを降し三冠ヘビー級王座を防衛した鶴田が天龍の救出に駆けつけるなど、大混乱の中でメインは締めくくられた。天龍が全日本離脱後は殺人魚雷コンビはタッグでは世界タッグ王座は鶴田&ザ・グレート・カブキ、三沢光晴&川田利明組に2度明け渡したが、90、91年と世界最強タッグ決定リーグ2連覇の偉業を成し遂げ、またWCWにも進出してNWA&WCW統一タッグ王者になるなど、最強タッグに相応しい活躍を見せた。
しかし殺人魚雷コンビの終焉は突然訪れた。「93サマーアクションシリーズⅡ」ではゴーディが三沢の保持する三冠ヘビー級王座に挑戦する予定だったが、成田空港に到着後に体調不良を訴え病院に搬送され、そのままシリーズをドタキャンしてしまった。ゴーディは膝の古傷の痛みを抑えるために非常に強い痛み止めの薬と一緒にウイスキーを飲んだことで、来日中に心臓麻痺を起こし、心停止にまで陥ったことが前科があり、保持していた三冠王座もハンセンとの防衛戦を前にドタキャンして返上していた。これを受けてウイリアムスが小橋との挑戦者決定戦を制して三沢に挑戦、王座は奪取出来なかったがシングルプレーヤーへと転身するも、ゴーディは休養を余儀なくされてしまった。しっかり療養したゴーディは94サマーアクションシリーズに急遽参戦したが、ウイリアムスのパートナーのポジションにはジョニー・エースが座っており、ゴーディは6人タッグなどでウイリアムスと組んだが、2人きりで組むことはなく、このシリーズを最後にゴーディは全日本を離れたが、殺人魚雷コンビは93年の夏で実質上終わっていた。
最初はゴーディを将来の外国人エースと考えてウイリアムスと組ませたが、ゴーディが自滅したことで、ウイリアムスとの立場が逆転してしまっていた。ゴーディが破滅的な性格でなければと思うと、惜しいレスラーでもあった。ゴーディは2001年7月に心不全で死去、ウイリアムスは2009年に喉頭癌で死去、殺人魚雷コンビとしての活動は3年あまりだったが、全日本で一時代を築いたチームだった。
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