1991年8月7日、愛知県体育会館から第1回「G1 CLIMAX」が開幕した。
G1開催のきっかけは1990年に新日本が8月に後楽園ホール7連戦開催したことだった。当時のマット界は新日本、全日本、UWF、パイオニア戦志、FMWの6団体だけで、SWSも旗揚げ前だったが、新日本はUWFだけでなく全日本にもファンのシェアを奪われ、新規の客層開拓を急務とされていた。そこで企画されたのは後楽園7連戦で、当時マット界はニッパチは客が入らない(12月~1月はクリスマスや正月などで出費のかかる行事があり、8月はお盆でお店に行かないので売り上げが下がる)として2、8月の興行は避けていたが、新日本は敢えて切り込み、後楽園ホールも空いていたということもあって7連戦を敢行、7連戦とも超満員となって大成功を収めた。そこで勢いに乗った新日本は翌年は両国だということで3連戦を開催することを決定、シングルのリーグ戦を行う、それがG1の始まりで、G1の名称は当時の社長で競馬ファンだった坂口征二が命名。ヘビー級によるシングルリーグ戦の開催は1988年「IWGPヘビー級挑戦者決定リーグ戦」以来で2年ぶりだった。国技館の3連戦は新日本にとっても初の試みだったが、UWFや全日本に押された新日本にとって起死回生を狙った企画だった。
出場選手
Aブロック 武藤敬司、藤波辰爾、スコット・ノートン、ビッグバン・ベイダー
Bブロック 蝶野正洋、橋本真也、クラッシャー・バンバン・ビガロ、長州力
出場選手は8選手でA、B両ブロック4名ずつが振り分けられた。IWGP王者の藤波、トップ外国人のベイダーも、現場監督となっていたが長州もまだまだ健在で三銃士にとって高い壁と立ちはだかっており、三銃士も壁を打ち破れないでいた。そのためか優勝候補は本命が長州、対抗は藤波とされ、優勝決定戦は長州vs藤波と予想視されていた。
8・7愛知県体育館でG1が開幕したが、長州が蝶野のSTFでギブアップ負けを喫するなど波乱が起き、8・9から国技館の連戦が始まるも、長州は8・9でビガロ、8・10では橋本と敗れ、全敗でリーグを終えて脱落、実は長州は長年に渡る蓄積されたダメージが肩、頚椎、膝にきてしまい満身創痍でG1に臨んでいたが、最終戦も精密検査を受けるために欠場する。藤波も開幕戦ではベイダーを破ったものの、武藤に敗れ、ノートンと両者リングアウトの引き分けと脱落してしまう。Aブロックは開幕戦ではノートンに敗れたものの藤波、ベイダーからフォール勝ちを奪った武藤が優勝決定戦に進出。Bブロックは蝶野と橋本がそれぞれ長州、ビガロを降し、蝶野vs橋本の直接対決では引き分けとなったことで首位タイのまま公式戦を終了、8・11最終戦では蝶野vs橋本の優勝戦進出決定戦を行い、その勝者が武藤と対戦することになった。
橋本vs蝶野は第5試合で行われ、橋本は蝶野を蹴りまくってリードを奪ったが、橋本も痛めている右膝を攻めた蝶野が形勢を逆転させ、橋本のDDT狙いを右膝を蹴って阻止した蝶野がSTFで捕獲し、橋本がギブアップで優勝戦進出を決めたが、橋本戦のダメージを考えると、誰もが武藤が優勝すると思っていった。
3試合後でメインの優勝決定戦が行われロックアップからじっくりとしたスタート、橋本戦でダメージを考え速攻勝負を狙うと思われていたが、自分から動くとスタミナをロスし武藤のペースになると考えたのか、グラウンド中心の攻めで武藤を切り崩しにかかる。
蝶野の流れを嫌った武藤はソバットからブラッシングエルボーで反撃も、スペースローリングエルボーがかわされると、蝶野はバックドロップあら裏十字固めと再び武藤を捕獲、張り手合戦を競り勝った蝶野はナックルも、武藤もエルボーで打ち返しアキレス腱固めで捕獲、更にリバースインディアンデスロックから鎌固め、リバースフルネルソン、腕十字固めと蝶野のスタミナを奪いにかかる。しかしその状態から起き上がった蝶野はストンピングで逃れるとケンカキックを連発、エプロンに逃れた武藤をケンカキックで場外へ蹴り出すと、トペを発射し、更にコーナーから場外の武藤にダイビングショルダーアタックを発射、一気に蝶野の流れに戻す。
リングに戻った蝶野はパイルドライバーを連発してSTFを狙うも、完全に決まる前に武藤が場外へ逃れ、蝶野は場外パイルドライバーを狙うが、リバースした武藤は通路に蝶野を連行、硬い床の上でのパイルドライバーを敢行して蝶野の首に大ダメージを与える。 リングに戻った武藤は蝶野にミサイルキックを発射、バックドロップからジャーマンスープレックスホールド、ゴッチ式パイルドライバー、ドラゴンスープレックスホールドと蝶野の首を攻めつつ勝負に出ると、ムーンサルトプレスを狙うが、どのコーナーから飛ぶのか躊躇してしまい、慌てて投下するが自爆となってしまう。
武藤のまさかの失策を逃さなかった蝶野はケンカキックからSTFで捕獲、武藤はロープに逃れるが、蝶野はコーナーからのダイビングショルダーで追撃してから卍固めで捕獲、武藤がロープに逃れたところでバックドロップで投げるが、武藤は高速ブレーンバスターで応戦し、今度は武藤から卍固めで捕獲する。
武藤は首投げからダイブを狙うが、蝶野は下からのドロップキックで迎撃、ところが武藤は飛び越えて自爆に追いやると、バックドロップからミサイルキックも、蝶野も下からドロップキックを放って相打ちとなり両者ダウンとなってしまう。
先に起きた蝶野はSTFを狙うが、武藤は慌ててロープに逃れドロップキックを狙うも、蝶野がかわしてケンカキックを浴びせ、受けきった武藤もランニングフォアアームで応戦し、シュミット流バックブリーカーからムーンサルトプレスで一気に勝負を狙う。ところが剣山で迎撃した蝶野はパワーボムで3カウントを奪い、G1を優勝。優勝候補にも挙がっていなかった蝶野の優勝に館内は大興奮となって座布団が飛び交い、リング内も座布団だらけとなった。
後年、長州は「蝶野が(G1を)優勝するのもインパクトだったら、オレの全敗もインパクトだった」と応えていたが、本命視されていた長州が全敗で終わり、闘魂三銃士の中では橋本と武藤の影に隠れがちだった蝶野の優勝、この2つのインパクトがG1 CLIMAXが始まったといっても過言ではなく、また藤波と長州、ベイダーを差し置いて三銃士の三人が上位を占めた。第1回のG1は闘魂三銃士が主役を奪い取った夏でもあった。
だが夏の主役を奪った三銃士だったが、まだ新日本での主役に躍り出ることが出来ず、三銃士の時代が到来したのはもっと先にことだった。 「G1 CLIMAX」は第1回の大成功を受けて、新日本の一大ブランドと化し、今年で28回開催されるというロングセラーとなった。今年も「世界で一番熱い夏」がやってくる…
(参考資料、新日本プロレスワールド 第1回のG1優勝決定戦は新日本プロレスワールドで視聴できます)
0コメント