1983年6月2日、テレビ朝日系列で放送されていたスポーツ生情報番組「速報!TVスタジアム」にて、第1回IWGP優勝決定戦でハルク・ホーガンと対戦していたアントニオ猪木がロープ越しのアックスボンバーを受けてKOされ、病院に搬送されたことを、蔵前国技館から駆けつけた古館伊知郎氏が速報と伝え、新聞だけでなくテレ朝以外の他局にも報道されたことで、大きなインパクトを与えた。自分も学校で猪木がホーガンに敗れて病院送りになったことで話題が持ち切りとなり、自分も3日放送された「ワールドプロレスリング」で猪木がホーガンのロープ越しのアックスボンバーを受けて場外でダウンして立ち上がれず、担架送りされたシーンを見たが、まるで"猪木が死んだ"と思わせるような感じで今での脳裏に憶えている。しかし後年になって猪木の失神KOは自作自演だったことが、いろんな形で伝えられたが、なぜ猪木がハッピーエンドを臨まなかったのだろうか…
1980年に異種格闘技戦にひと段落をつけた猪木が"プロレス界における世界最強の男を決める、"世界中に乱立するベルトを統合し、世界最強の統一世界王者を決定する"とIWGP構想を掲げたが、当時の新日本プロレスは世界最高峰のプロレス組織であるNWAに加盟していたものの、NWA世界ヘビー級王者のブッキングは全日本プロレスに独占され、また猪木が権威を高めてきたNWF世界ヘビー級王座も、NWA加盟に当たってベルトから世界を外され、NWAから新日本内のローカルタイトルとして扱われた。NWAから冷遇された猪木は今後どうするかを当時の腹心だった新間寿氏に意見を求めると、「簡単じゃないですか。NWAの上にいくやつを創りましょう。創れるか創れないかではなく、創ればいいんですよ」と提案、それがIWGPの始まりだった。
猪木はIWGPを提唱するためにNWF王座を始め、新日本が管理する全てのヘビー級タイトルを封印、新日本のリングで日本人を中心としたアジア予選がスタートし、IWGPの主旨に賛同という名目で全日本からアブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー戸口を引き抜いた。しかし開催に向けて順調に進んでいたわけではく、猪木は事業にのめりこみ始め、糖尿病も患って昭和57年には2度に渡って欠場、また新日本のトップ外国人選手だったスタン・ハンセン、タイガー・ジェット・シンが全日本に引き抜かれてしまった。そして事業も上手くいかず猪木は資金繰りに追われ、新日本から資金を流用したことで、フロントだけでなくレスラーからも不満が噴出、コンディション調整も万全でないまま、念願だったIWGPを迎えざる得なかった。
1983年5月にIWGPが開幕、当初は世界ツアー規模でリーグ戦を行い、決勝戦をニューヨークMSGで行う構想を掲げていたが、開幕戦を行うはずだった日本での開催に留まり、日本からは猪木、キラー・カーン、カナダからアンドレ・ザ・ジャイアント、ディノ・ブラボー、アメリカからハルク・ホーガン、ビッグ・ジョン・スダット、メキシコからエル・カネック、エンリキ・ベラ、ヨーロッパからはオットー・ワンツ、ヨーロッパヘビー級王者として凱旋した前田明の10選手が参戦したが、予選リーグを開催していたのは日本とメキシコだけで、他は新日本と提携していた団体から選手を派遣されたに過ぎず、NWAも全日本プロレスが「IWGP王者は新日本プロレスのローカルチャンピオンである」と見解を示したことで、「世界各地の王者を日本に招いて世界最強のチャンピオンを決定する」というものにトーンダウンしてしまった。またブラボーもリーグ戦を行わないまま家庭の事情で緊急帰国し、代役としてラッシャー木村が急遽エントリーするハプニングも起きていたが、当時の新日本の絶大な人気もあって連日超満員札止めを記録、IWGPは大いに盛り上がっていった。
開幕戦では猪木がアンドレに反則負けで黒星スタートを喫したことで、優勝戦は猪木vsアンドレになるのではと思われていたが、ハンセンの全日本移籍を契機にのし上がってきたホーガンがトップグループに食い込み、猪木、アンドレ、ホーガンの争いとなっていったが、リーグ戦の最中にも猪木は事業の資金繰りや内部からの突き上げに追われ、また糖尿病を患ったことをきっかけにレスラーとしても下り坂に差し掛かり、また長州力とアニマル浜口による失踪事件も発生し、対応に追われたことで、体調面だけでなくメンタル面でも最悪の状態のままリーグ戦をこなしていた。リーグ戦は終盤でアンドレがカーンと両者リングアウトとなったため脱落、優勝決定戦には猪木とホーガンが進出した。
6・2蔵前国技館は超満員札止めとなり、誰もが猪木の優勝を信じていた。しかしイザ蓋を開けてみると、ホーガンが猪木相手にグラウンドで互角に渡り合い、猪木がなかなかペースが握れない展開が続く、ホーガンは前年度からは猪木とタッグを組んでいたが、タッグを組みつつも猪木の試合運びやテクニックなどしっかり盗み取っていたのだ。そして猪木が不用意にヘッドロックを奪ったところでホーガンが高角度でバックドロップで投げると、猪木は後頭部を痛打してしまうが、おそらくこのバックドロップで猪木は意識が飛んでいたことは間違いないだろう。猪木はエアプレーンスピンで捕らえたまま場外へ転落し、意識が飛んでフラフラになった猪木は背中向けると、ホーガンが背後からアックスボンバーで強襲して、猪木は鉄柱に直撃、頭部に更なるダメージを負った猪木はエプロンに不用意に立ったところで、ホーガンがロープ越しのアックスボンバーを浴びせて、猪木は再び場外へ転落、そのまま立ち上がれず、セコンドの坂口征二らがダウンした猪木をエプロンにまで上げるが、猪木は起き上がることもなく、そのままKOとなり、ホーガンが優勝、意識を失った猪木は病院送りとなる。猪木のKO劇は"演技"なのではという話も出たが、試合内容を見た限りではホーガンのバックドロップを受けたことで頭部にダメージを負い、意識が飛んでいたことは間違いないと思う。しかし猪木が負けを"選んだ"理由は、上り調子のホーガンに対し、レスラーとしてピークを過ぎ、下り坂に差し掛かっていただけでなく、リング内外の問題も重なってコンディションは最悪、その状態でホーガンに勝ったとしてもインパクトは薄い、だから敢えて大負けしてインパクトを与えることでIWGPの名称も高まり、体調を整えてからホーガンにリベンジすれば大きなインパクトを残せるではと考えたのではないだろうか…、しかしそれが猪木にとって最大の誤算であることは、猪木自身も気づいていなかった。
猪木がホーガンにKOされ、病院送りにされたニュースは瞬く間に広まり、猪木が搬送された病院には当時の夫人である美津子夫人だけでなくマスコミやファンも駆けつけて猪木の安否が気遣われたが、後になって猪木はこそっと病院を抜け出していたことが、芸能リポーターである梨元勝氏に発見され、梨元氏から新間氏に猪木が病院を抜け出していることが伝わり、猪木が意識不明であると思い込んでいた新間氏は病室に駆けつけると、もぬけの殻で、このことを知った副社長の坂口征二は自分のデスクに「人間不信」の置手紙を置いて、しばらく連絡を絶った。新日本的には社内の不安定な状況だけでなく、猪木の体調不安説を一掃するためには、猪木に優勝してもらうしかなかったのだが、IWGPの存在を高めるために猪木は大きなインパクトを選んだことで、社内から不信感を煽る結果となり、猪木が欠場中の間に社内でのクーデター事件が起きると、猪木は会長に棚上げされて一時失脚するが、テレビ朝日のバックアップを受けて社長として復権するも、テレビ朝日のバックアップの条件は新間氏を新日本から追放することだったことから、猪木は新間氏を斬らざる得ず、新間氏も猪木に対する不信感を強めたまま新日本を去っていった。
第1回から1年後の1984年5月に第2回IWGPが開催、前年度覇者であるホーガンはシード扱いされ、リーグ戦1位の選手がホーガンに挑むという形式とされ、猪木がリーグ戦を勝ち抜いて前年度覇者であるホーガンと対戦となり、前年度の大きなインパクトがあって蔵前国技館には入りきれないほどの観客が動員され、入りきれなかったファンに対応するために会場外にクローズサーキット方式でスクリーンを設けたが、誰もが期待していたのは猪木のリベンジだった。しかし開催まで1年間、マット界は激変しており、ビンス・シニアからビンス・マクマホンに代替わりしたWWFは「ロッキー3」に出演して知名度を高めたホーガンと独占契約を交わし、ホーガンはWWF王座を奪取して全米を代表するスーパースターへと伸し上る。ホーガンはハンセンやシンのように猪木と対戦することによってレスラーとして成長したわけでなく、猪木とタッグを組むことで成長を果たしていたが、第1回IWGPを契機に二人の立場は逆転してしまっていたのだ。
WWFも新日本との関係を見直し破格のブッキング料金を要求、これまで外国人ルートの大半はWWFに委ねていたのもあって、新日本にとっても死活問題だったが、新日本を去った新間氏が第1次UWFを設立しシニアのルートでWWFとの提携ルートを奪取に動いていたこともあって、新日本は渋々WWFとの新契約を結んだ。それは対等とされていたWWFと新日本の関係も大きく変わってしまった。
試合は両者は互角に渡り合うが、次第に猪木が試合運びの上手さでホーガンを翻弄、延髄斬りを放っていく猪木に対し、焦ったホーガンはレッグドロップからアックスボンバーを狙うが、猪木がドロップキックで迎撃して場外戦となるも、ホーガンが場外ブレーンバスターを決めたところで両者リングアウトとなり、納得しないファンから「延長コール」が発生したため、延長戦となるが、今度は猪木が足四の字固めを決めたままエプロンに出てしまい、エプロンカウントアウトということで引き分けとなったため、欲求不満となったファンからは再び「延長コール」が発生、再延長戦となるが、これで終わると思っていたホーガンは「何故!」と怒り出す。再延長戦は焦るホーガンがいきなりアックスボンバーも、前年度の逆のパターンでホーガンがエアプレーンスピンで担ぎ、ロープを掴んだ猪木は場外へ引きずり出すも、ホーガンは場外でアックスボンバーを放ち、エプロンに上がった猪木に昨年度の再現を狙ったロープ越しのアックスボンバーを狙うが、場外カウントを数えていたミスター高橋レフェリーと交錯、ホーガンは鉄柱攻撃を狙うと、いきなり長州力が乱入して猪木にリキラリアットを浴びせ、ホーガンにもリキラリアットを狙ったがホーガンのアックスボンバーと相打ちとなって両者ダウンとなった瞬間ファンは物を投げつける。猪木はその間にリングインしてリングアウト勝ちとなったが、喜んでいたのはセコンドの新日本勢だけで、期待を裏切られたファンは怒り物を投げつけ、長州に対しても罵声が飛び交い、それでも怒りの収まらないファンは垂れ幕は引き裂き、設置されていた大時計を破壊するなど暴動状態となる。そこで国技館が警察に連絡し警官隊が鎮圧に駆け付け。この警察官と警備員の説得で何とか観客を会場の外に出すことが出来たが、それでも納得しない一部のファンが決起集会を開き、「坂口は新日本の責任者として謝罪せよ。混乱を招いた長州を処罰せよ」と新日本に対して要望書を提出した。
猪木のリベンジの場がこういう結末になったのか…、ホーガンへのリベンジこそ、猪木の望んだ展開であり、新日本的にも全ての不安を払拭するためには猪木には勝ってもらわなければいかず、館内もその空気で充満していた。だが全米の大スターへとのし上がっていったホーガンも負けられない立場になってしまっていた。引き分けではファンが納得せず、ファンの空気に押される形で2度に渡る延長戦となったが、それでも出口が見えなくなったかのように落としどころが見つからない状態となり、長州の乱入で全てを済ませようとしていたのか…だが1度目の裏切りはファンは許しても2度目はさすがに許さなかった。ファンが臨んだのは猪木がキチンとした形でのリベンジだったが、不透明な形での猪木の勝利は誰も望んでいなかった。それがファンの怒りに繋がり暴動に発展したのではないだろうか…
1985年も第3回IWGPがトーナメント形式で開催、前年度覇者の猪木はシードとされ、トーナメントを勝ち抜いたアンドレを降し、6月13日愛知県体育館で猪木の保持するIWGPヘビー級王座にホーガンが挑戦という形で対戦、猪木がリングアウト勝ちで勝利を収めたが、第1、2回と比べ大きなインパクトを与えることは出来ず、IWGPが終了してしばらくしてWWFとの提携が終わり、猪木とホーガンは2度と対戦することはなかった。第1回IWGPでの猪木の最大の誤算は自身が失神し大きなインパクトを与えたことでIWGPを大きく知らしめることが出来たが、ホーガンが自身を踏み台にしてのし上がり、手の届かないところまで登りつめてしまったこと、1984年のマット界の激変だったのではないだろうか…、時代を掌に乗せていたはずの猪木は時代からズレ始めようとしていることは猪木自身は気づいていたのだろうか…
蛇足となるが猪木とハルク・ホーガンが巻いた初代IWGPベルトは、IWGPがタイトル化してからも使用され、1997年の2代目ベルトが誕生するまで使用された。その後初代ベルトはIGFのスタッフに持ち出されしまったが、IGFで使われたのはレスナーに持ち出された3代目のベルトだった。IGFで初代ベルトを使っていたら、新日本への揺さぶりにもなり、また新日本もIWGPの封印も考えたはず、猪木は「忘れたな・・・」ってごまかすだろうが、自分は猪木がトロフィーやガウンなど人に簡単にくれてやることはあっても、どうしても自分の手元に残しておきたいものがあったのでは…それが自身の心血注いだ初代ベルトであり、NWFのベルトであると思っている。
第1回、第2回、第3回IWGPで行われた猪木vsホーガン戦は新日本プロレスワールドで視聴できます)
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