1996年9月5日、全日本プロレス日本武道館大会で三冠統一ヘビー級王者となっていた小橋健太がスタン・ハンセン相手に初防衛戦を行った。
「96チャンピオンカーニバル」では6位に終わった小橋は上位に食い込めないどころか、同期である田上明にチャンカン優勝を先越され、内容は残せても結果に繋がらないスランプの状態が続き、四天王の中ではまだ三冠王座を戴冠していなかったことがあって小橋は焦りを募らせていた。その矢先に5・23、24の札幌二連戦のカードが発表されたが決定を見た小橋は愕然としてしまう。23日は世界タッグ王者である川田利明&田上明への挑戦に三沢光晴のパートナーにデビューして3年目の秋山が抜擢され、24日にはチャンカンではベスト4にも残れなかったのにも関わらず川田との三冠王座挑戦者決定戦が組まれていたからだった。
三沢は小橋とのタッグに関しては前年度の最強タッグから解消を示唆していたのに対し、小橋は三沢とのタッグは継続を望み、挑戦者決定戦に関しても自分より上位に入っているハンセンが入るべきなのではと考えていた。しかしカードを決めるジャイアント馬場も"そろそろ小橋は一本立ちさせるべきだ"と考えており、三沢も小橋とのタッグを解消しようとしていたのも"小橋が悩んでいるのも、甘えがあるからのでは"と考え、挑戦者決定戦も上位には食い込めなかったがリーグ戦ではスタン・ハンセンやスティーブ・ウイリアムスに勝っている実績を考えた上での起用だった。だが自分の知らないところでカードを決められたことで、小橋はますます悩んでしまい。札幌2連戦前日には小橋は「今後自分は誰と組んでやっていけばいいんですか」と馬場に直談判するも、馬場は「まあ待て」としか答えてくれなかったのもあって"突き放された"と思い込んでしまった。馬場にしても"もう自分の考えで動くべきだ"と考えて、敢えて小橋を突き放したのだろうが逆効果となってしまい、小橋は酒を溺れるように飲み荒れ、その気持ちが試合に出てしまったのか24日の川田戦は敗れ、三冠王座戦線から大きく後退、また田上も三沢を破り三冠王座を奪取したことで、田上と小橋との差はますます開いてしまったかに見えた。
田上は6・7日本武道館大会で川田を破り王座を防衛したが、「サマーアクションシリーズ」では小橋の三冠挑戦が決定する。これも事前に小橋へ相談もなく全日本側が一方的に決めたカードだったが、次期挑戦者がハンセンやウイリアムスでは武道館のメインは難しいと考えただけでなく、悩める小橋に荒療治が必要と考えた上で組んだのだろうが、挑戦者決定戦でも川田に敗れていた小橋は自分は挑戦者に相応しくないと考えていたことから、この決定にも乗り気ではなく、また「会社は俺を"咬ませ犬"にしたいのか」「三冠ベルトの価値はそんなに安いものなのか」「会社にとって、俺の価値はそんなものなのか」と疑念さえ抱くようになった、その最中に7・11博多で小橋は秋山とシングルで対戦、試合は30分フルタイムドローとなるが、秋山から「僕の中では、『小橋さんなら』というものがありますから、どんな状況であっても、小橋さんなら三冠に挑戦する資格が十分にあると思う。そこできっちり勝利してベルトを巻いて欲しい」とエールを貰い、小橋自身も「負けたらここでの居場所はない」と腹を括って、7・24武道館で田上に挑戦、田上のダイナミックキックを顔面に受けて左目を負傷しながらも、田上の後頭部めがけてダイビングギロチンドロップを投下して3カウントを奪い念願の三冠王座を奪取も、実はダイビングギロチンを放った際に臀部を強打、そのショックで小橋の意識も飛んでしまい。王座奪取をコールされても何が起きたのか、まったく把握していなかったという。
小橋は全日本時代からムーンサルトプレスを使っていたが、自爆や剣山で迎撃されると自身のへのリスクが高いため、チャンピオンカーニバルからダイビングギロチンドロップをフィニッシュに使うようになっていた。田上との三冠戦でダイビングギロチンも、自身の対するリスクが高くて使い物にならないと判断した小橋は、新しい必殺技を模索しなければならなくなったが、そこで考えたのがラリアットだったのだ。
小橋は7・5大阪での6人タッグマッチでラリアットでパトリオットから3カウントを奪い勝利を収めていたのだが、まだこの時点では繋ぎ技としか考えていなかった。9・5武道館では初防衛戦の相手にハンセンが決定したが、"小橋にまだ三冠王座は早い"という声もあって、メインは三沢&秋山組vsウイリアムス&ジョニー・エースの世界タッグ選手権となり、小橋vsハンセンの三冠戦はセミで扱われた。この決定を受けた小橋はメインを上回るには内容だけでなくインパクトも与えなければならないと考えていた。
そんなある日、小橋がラリアットをフィニッシュに使いたいと考えていることが伝わったのか、外国人係だったジョー樋口を通じて小橋はハンセンから秘かに控室に呼び出されていた。小橋は一番懸念していたのは自身の必殺技であるウエスタンラリアットに誇りを持っているハンセンからのNGで、ハンセンも長州力と対戦してリキラリアットを喰らってもフォール負けを許さなかったことで、自身の必殺技にプライドを持っていた。そこでハンセンから出た言葉は「ラリアットはコバシが使うなら構わない、でも乱発はしないでくれ。乱発するなら本当のラリアットではない、使うなら一発で決めろ!」と了承どころかアドバイスを受けた。ハンセンからOKを貰ったことで、小橋も自身がラリアットを何度を喰らった経験を生かしてアレンジを加え、剛腕ラリアットを作り上げた。そして9・5武道館ではハンセンが小橋の保持する三冠王座に挑戦、左腕のサポーターを外したハンセンがウエスタンラリアットを狙うが、かわした小橋はバックドロップから剛腕ラリアットを炸裂させ、1発目はカウント2でキックアウトされたものの、ハンセンのビックブーツを喰らった後で、すぐさま2発目の剛腕ラリアットが炸裂して3カウントを奪い王座を防衛、この試合でラリアットの名手であるハンセンからラリアットでフォールを奪ったという大きなインパクトもあって、小橋の剛腕ラリアットがフィニッシュとして定着した。
ハンセンはこの試合を最後に三冠王座戦線から撤退し、2度と挑戦することもなかった。皮肉にも小橋のラリアットがハンセンに引導を渡す結果となってしまったが、今思えばハンセンもピークを過ぎてしまっていたことから、小橋にラリアットを託したのは"自分のラリアットを引き継ぐのは小橋しかいない”と考えていたからのではないだろうか、それ以降は小橋もラリアットをムーンサルトプレスに次ぐ自身の代名詞的技となり、バーニングハンマーが誕生するまでは、小橋はラリアットをフィニッシュとして使い続けた。
小橋も引退し、ハンセンのラリアットは新日本プロレスの小島聡に伝承されたが、小島も「乱発するなら本当のラリアットではない、使うなら一発で決めろ!」という考えはしっかり受け継いでいるはず、「ラリアットを使うなら一発で決めろ!」という考えが残っている限りは一撃必殺のラリアット伝説は永遠に受け継がれていく。
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