ジャパンプロレス誕生…日本マット激動の1984年

 1983年12月27日、ニューヨークを本拠を置くWWFがNWAの総本山であるミズーリ州セントルイスにて興行を開始、これをきっかけに全米各テリトリーに侵攻を開始した。WWFの全米侵攻をアメリカの各プロモーターは近未来SF小説のタイトルになぞえて『1984』と呼んだ。


 アメリカマットに起きていた『1984』はアメリカだけの出来事ではなく、日本マットにも起きようとしていた。1983年8月に新日本プロレスはアントニオ猪木の事業問題から事が起きた「クーデター事件」が発生、、クーデターは一時的に社長から失脚した猪木が社長に復権することで事が収まったかに見えたが、事件の余波は続いていた。


 絶大なる人気を誇っていた初代タイガーマスクが引退しても、新日本は猪木率いる正規軍vs長州力率いる維新軍団の軍団抗争で人気は維持し続けたが、1984年3月に新日本プロレスを追われた新間寿氏が第1次UWFを旗揚げ、新間氏の誘いを受けて前田日明やラッシャー木村が追随したことで、昭和56年代から続いてきた新日本と全日本プロレスによる日本マット独占が崩れてしまう。しかしUWFの旗揚げは、これから起きようとする大激震のほんの余震に過ぎなかった。


 1983年12月に新日本プロレスの営業部長で新間氏の片腕として辣腕を振るい、新日本の隆盛を支えてきた大塚直樹氏が『新日本プロレス興行』なる興行会社を設立した。大塚氏は猪木が自身の事業に新日本から得た利益を流用していることに懸念を抱き、クーデター事件ではクーデター派に属していたものの、クーデターが失敗に終わると、大塚氏は退社するが、猪木が「今後も協力して欲しい」と、76年6月にモハメド・アリ戦を行う際に伴い、テレビ朝日に経営権を奪われたときの対策として登記してあった「新日本プロレス興行」という会社を譲渡、大塚氏は資本金の問題もあって名称だけは譲り受け、出資者を募って新日本プロレス興行が創立されたが、その出資者の中には後にジャパンプロレスの会長となる竹田勝司氏、大塚氏と懇意にしクーデター事件ではクーデター派にいた永源遥がおり、永源はこの時点でもう『新日本プロレス興行』の一員となっていた。大塚氏と懇意だった長州も『新日本プロレス興行』内に自身の個人プロダクションである「リキ・プロダクション」を置き、管理・運営を『新日本プロレス興行』任せていたことから大塚氏とも近い関係だった。


 しかし新日本本体と『新日本プロレス興行』は表向きは姉妹関係とされていたが、設立パーティーには大塚氏をバックアップしていた猪木は姿を見せなかったことで、大塚氏は猪木への不信感を抱き、1984年2月3日の新日本興行主催興行の札幌大会で組まれた藤波vs長州が藤原喜明のテロによって試合は不成立にさせられた一件でも、猪木が藤原を使って興行を壊すことを仕組んだと勘ぐっていた。新日本本体も「新日本に弓を引いた人間がなぜビッグマッチの興行を手がけるんだ」という不満が出始めていたことで、猪木も「大塚が新日本の興行を全て手がけ収益を独占する気なのでは…」と疑り始めていたことから、新日本プロレス本体と新日本プロレス興行の信頼関係は最初から成り立っておらず、埋め難い溝が生じていた。


 一方の長州は新日本正規軍vs維新軍団の抗争はいよいよクライマックスに差し掛かり、4・19蔵前で行われた5v5による勝ち抜き戦では、大将戦でやっと猪木との対戦が実現するも卍固めの前に敗れ、第2回IWGPの5・18広島では公式戦で再戦するもリキラリアット狙いを猪木が逆さ押さえ込みで3カウントを奪い2連敗を喫したことで、新日本における長州革命は完全に行き詰まってしまう。そして6・14蔵前で行われたホーガンvs猪木による第2回IWGP優勝戦では長州が乱入してホーガンにリキラリアットを浴びせて、猪木の優勝をアシストしたことで、長州はファンの怒りを一身に浴びた。長州はなぜ優勝戦決定戦をぶち壊したのか、今でも真相を明かしていない。わかるのは猪木の絶対エース体制は守られ、アメリカでトップスターとなっていたホーガンはプライドを傷つかずに帰国したことだった。乱入した夜、長州は酒を飲み大いに荒れたという。

 第2回IWGPが終わると、『新日本プロレス興行』が全日本プロレスと業務提携を発表したことで新日本本体を震撼させる。新日本興行は8・26に田園コロシアムで興行を行うために会場を押さえていたのだが、新日本はキャンセルを通達したことで、新日本の嫌がらせと判断した大塚氏は猪木どころか新日本も信用できないと考えていた。そこで『ゴング』誌の竹内宏介氏を通じて全日本プロレスのジャイアント馬場と接触を求めてきた。全日本は営業力は弱かったこともあって、大塚氏のことを敵ながら営業力は高く評価しており、「味方につければ心強い存在になる」と考えていた。馬場は『新日本プロレス興行』で行うはずだった8・26田園コロシアム大会を全日本プロレスで開催することのなったが、新日本プロレスの看板を使っている興行会社が敵対団体である全日本プロレスの興行を請け負う、新日本本隊にとっても裏切り行為でもあり、新日本本体を大きく震撼させた。


  6・29後楽園から「サマーファイトシリーズ」が開幕するも、開幕直前で長州とは別に事件が起きていた。藤原喜明と高田伸彦が突然新日本を離脱して、UWFに移籍したのだ。藤原は2月の長州襲撃事件で維新軍団への鉄砲玉として売り出しており、高田は次代のスタートして将来を担うだけでなく、シリーズではダイナマイト・キッドの保持するWWFジュニアヘビー級王座に挑戦することも決まっていた。そういう状況の中で開幕戦では試合を外された長州がリングに呼び出されると、山本小鉄氏によって公開という形で処罰が発表され、新日本は①自分の試合でない試合にリングサイドの立ち入りを禁止、これに反した場合は新日本から永久追放 ②維新軍団の解散 ③罰金100万円と1週間の謹慎と厳罰処分を降す。長州は処分内容が記された書類を手にすると破り捨てた。新日本の狙いは猪木vsホーガン戦をぶち壊した責任を問うことではなく、親密な関係だった長州と大塚氏を切り離すことだった。長州は新間氏からUWFに誘われ、契約金も手渡されたが、これを聞きつけた大塚氏は新日本に通報し、テレビ朝日との専属契約という好条件を提示し、また長州も乗り気になれなかったことで引き抜きは未然に防がれていたが、長州を完全に信用していたわけではなかった。新日本は敷いたレールに長州を無理やり乗せ、大塚氏と切り離して取り込もうとしていた。


 このあたりから長州の心は新日本から離れていく、おそらく大塚氏と同様で新日本に対しての不信感も募っていたと思う。7月5日の大阪大会では藤波がWWFインターヘビー王座をかけてエル・カネックと防衛戦を行うことが決定していたが「カネックとのタイトルマッチの後に、長州と試合がしたい。札幌でタイトルマッチが決まっているけど、それまで待てない。2人とも燃えているうちにやりたいんだ」とアピールして、カネックと長州相手にダブルヘッダーを行うも、カネックにはバックドロップで勝って防衛したものの、すぐ行われた長州とのノンタイトル戦では試合では疲れが見え始めた藤波に、長州がハサミを持ちして額を刺し、ミスター高橋レフェリーにも暴行を加えたため反則負け、20日のWWFインター王座をかけられた再戦では長州がサソリ固めを決めたところで、リングサイドに猪木が現れ長州を挑発、長州はサソリ固めを解いて猪木に気を取られてしまうと、藤波がバックドロップで3カウントを奪うという始末の悪い結果となり、長州も猪木の乱入は想定していたせいか「もう、藤波とはいいよ」と投げやりな態度を取る。

 8・2蔵前では長州は猪木と対戦し、これまでとは一転として素晴らしい技と技の攻防を繰り広げ、猪木も長らく使用していなかったジャーマンスープレックスホールドまで披露、長州のサソリ固めもプッシュアップした猪木が体を曲げて長州の足を掴んで切り返すなど猪木なりの閃きも見せる。最後は長州のリキラリアットをかわした猪木がグラウンドコブラで丸め込み3カウントも、敗れた長州も満足した一戦だったが、長州の憂鬱は晴れたわけでなく、6~14日に行われたパキスタン遠征では政府の命令で敵対していた藤波とタッグを組まされる。政府の命令とは表向きで猪木の意向が働いたのは明白だった。

 パキスタンから帰国後の8月24日、全日本プロレス田園コロシアム大会2日前、新日本後楽園大会の会場で大塚氏は猪木本人から契約解除通知を手渡され、『新日本プロレス興行』は9月いっぱい予定されていた主催興行をもって新日本から撤退することになったが、田園コロシアム大会が終わった2日後の28日、大塚氏は新日本に対して絶縁を通告、そして猪木、坂口以外の選手の引き抜きを宣言、になって引き抜きに暗躍する。実は25日の筑波大会で維新軍団の小林邦昭から「新日本の興行を辞めるのですか?自分達は一蓮托生ですよ」と話すと、長州から電話がかかり「家に来て欲しい」と大塚氏は長州のマンションを訪れたが、長州のマンションには長州だけでなくアニマル浜口、谷津嘉章、小林邦昭、寺西勇の維新軍団の面々が揃っていた。そして大塚氏は「新日本のリングのほかに全日本プロレスのリングで新境地を開いてくれないか」「『新日本プロレス興行』を手伝って欲しい」とオファーをかけると、長州は「大塚さん、みんな一蓮托生ですよ。みんな不安なんですよ、シリーズが終わるまでに結論を出しましょう」と告げ、即移籍へは明言は避けたが、半ば決まったのも同然だった。

 長州ら維新軍団は予定通りに「ブラディファイトシリーズ」に参戦したが、シリーズ直前に中堅の木戸修までが新日本を離脱し、UWFへ移籍する事態も発生してしまう。新日本はカルガリーから平田淳嗣、ヒロ斎藤、高野俊二らを帰国させて穴埋めさせ、平田はストロングマシンに変身し、長州に代わる猪木の抗争相手となったことで、注目される存在になっていくが、この3人も後に新日本を離脱して大塚氏に合流することになる。長州は一歩引いて外国人選手を中心に対戦したが、副社長の坂口には「谷津と一緒にニューヨークに遠征してリフレッシュしたい」と申し入れる。新日本も当初シリーズに参戦する予定だったホーガンがWWFでのスケジュールを優先したため来日をキャンセルしてしまったことで、新日本とWWFの関係に亀裂が生じ始めていた。坂口も"ニューヨークに行ってしまえば大塚らも迂闊には手が出さないどころか、長州をWWFに参戦させることでWWFとの関係も修復出来る" と考え、日本に残る浜口、小林、寺西に対しても、"長州さえいなければ3人を取り込むことは簡単"と考えたのではないだろうか…坂口は了承するも、この時点でWWF行きはカモフラージュで、新日本から離脱することは全く気づいていなかった。

 9・18愛知県江南大会で浜口、谷津と組んだ長州は猪木、藤波、木村健悟組と対戦して、長州が首固めで木村から勝利したことで、維新軍団vs正義軍の戦いにピリオドを打たれ、9・20大阪でも長州は谷津と組んでロジャー・スミス、トニー・セントクレー組と対戦して勝利を収め、バックステージでは坂口が長州がWWF遠征に出ることを発表、維新軍も正規軍の控室に入って打ち上げに参加、猪木と共に結束を誓い合った。ところが一夜明けた21日、キャピタル東急ホテルで維新軍団が会見を開き、会見を開く10分前に新日本に対して退社届を提出、『新日本プロレス興行』入りしたことを発表、会見には出席しなかったが顔を見せた馬場も「まさか今日会見をやるとは思わなかった。大塚さんのところはうちと提携しているんだし、うちとしてはいつ長州たちが上がってもいいように受け入れ体制を整えておくだけだよ。」と半ば全日本参戦を容認する発言をする。長州らの行動に完全に油断していた坂口は「5匹の狸に騙されたよ。」と吐き捨てていったが、新日本に激震はまだこれで終わらなかった。次は永源遥、栗栖正伸、保永昇男、仲野信市、新倉史裕、笹崎伸司の中堅、若手までも合流、栗栖、保永、仲野、新倉は大塚氏とも懇意にしていたことから口説き落とされた形で『新日本プロレス興行』に参加した。選手らの契約金は竹田氏が用意した。更に同じ維新軍のキラーカーンも大塚氏の誘いで合流、マサ斎藤も長州のたっての希望でタイガー服部と共に合流し、『新日本プロレス興行』にしたのは14名、新日本にとっても大打撃だった。

 『新日本プロレス興行』は長州の『リキプロダクション』と合併して、新団体『ジャパンプロレス』を設立、竹田氏が会長、大塚氏が社長に就任する。猪木は長州らの離脱に対して「暮れには一足早い大掃除ができた」と強気のコメントを出したが、大塚氏は「猪木さんは今回のことで 大掃除ができたと言ってるそうですが…我々を含めて選手たちをゴミと思っていたのでしょうか。ウチに来た選手は“武士の情”で何ら猪木さんや青山(新日プロの通称、事務所が青山にあった)への不満を口にしないのに、あまりにも一方的ですね。この1年間で36人もの人間がなぜやめたのか、その事実をどう考えているんでしょう。まあ、ウチもリングを買ったし、ウチのリングに出てくれるなら(猪木さんの)参加も考えましょう。とにかく新日プロが変わらなければ、今後も選手がどんどん辞めていくと思いますよ。」反論、「一方的な契約解除は営業妨害」として新日プロに対し、4億円の損害賠償を求め訴訟を起こしつつ更なる離脱者が出ることを予告。11月には新日本の常連外国人選手だったダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミスも離脱し、『ジャパンプロレス』を通じて全日本に参戦、また翌年にはスーパー・ストロング・マシン、ヒロ斎藤、高野俊二も離脱するなど、大塚氏の予告通りにジャパンプロレス設立後も新日本から離脱者が続出していった…


 日本マットで起きた「1984」は昭和50年代に君臨していた新日本プロレスという組織の統率力が低下したことを受けての大分裂劇だった。全日本も新日本の組織内の乱れを突いて攻勢をかけ、新日本を休業寸前にまで追い詰めたが、。新日本は主力が猪木、坂口、藤波、木村、星野、コブラだけになったものの、若手だった山田恵一、橋本真也、蝶野正洋、武藤敬司らを一気に底上げさせたことで崖っぷちで踏みとどまり、90年代の全盛期に向けて布石を打っていく。また全日本も長州らが参戦することで天龍源一郎を始めとする選手たちの意識が変わり始め、後に天龍革命へとつながっていった。


 1984年は日米マット界にとっても激動の年でもあったが、アメリカマットに起きた『1984』はこれまでのアメリカマットの秩序を破壊し、WWEによって新しい秩序を産み出そうとしていたものだったが、日本の『1984』は新しいうねりが出来たとしても、ジャイアント馬場、アントニオ猪木という二人の首領の時代は続き、二人の首領は新しい力をコントロールすることで時代を維持し続け、これまでの秩序を破壊するまでには至らなかった。マット界に新しい秩序をもたらしたのは馬場が死去し、猪木が新日本プロレスをユークスに売却してからのことである。

伊賀プロレス通信24時

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