ジャンボ鶴田から三沢光晴へ…全日本プロレス、激動の1992年

 

1992年、全日本プロレスは激動の年を迎えようとしていた。

 全日本プロレスは1990年から天龍源一郎にSWS移籍により、ジャンボ鶴田率いる鶴田軍(鶴田、田上明、渕正信、小川良成)vs三沢光晴率いる超世代軍(三沢、川田利明、小橋健太、菊地毅)へと突入、またスタン・ハンセン、テリー・ゴーディ、スティーブ・ウイリアムス、ダニー・スパイビーの外国人四天王を加えた三巴の戦いとなっていった。


 1991年1月19日、松本市総合体育館で鶴田がハンセンを破り三冠ヘビー級王座を7ヶ月ぶりに奪取、全日本の戦いは鶴田中心に回るようになり、三沢、ウイリアムス、川田から三冠王座を守った鶴田はプロレス大賞のMVPを受賞、三沢が台頭していたものの、鶴田が健在をアピールして、三沢らの壁となり大きく立ちはだかっていた。


 しかし1992年に入ると1月28日の千葉公園体育館大会で鶴田はハンセンに敗れて三冠ヘビー級王座から転落、3月4日の日本武道館大会では三沢がハンセンに挑み、三冠王座奪取と世代交代に期待をかけられたが、コーナーからのダイビングエルボーアタックをガードされたところでハンセンのウエスタンラリアットを喰らって3カウントを奪われ王座奪取に失敗、一方の鶴田は田上と組んでゴーディ、ウイリアムス組の保持する世界タッグ王座に挑み、鶴田がウイリアムスをバックドロップで3カウントを奪って王座を奪取するなど明暗を分ける結果となり、まだまだ鶴田時代が続くと思われていた。


 ところが鶴田が7月4日から開幕する「92サマーアクションシリーズ」を足首の負傷を理由に全休し、次期シリーズの「92サマーアクションシリーズⅡ」から復帰、8月22日の武道館大会では田上と組んでノンタイトルでゴーディ、ウイリアムス戦と対戦するも、鶴田が徹底的に狙い撃ちにされ、鶴田がゴーディにバックドロップを狙った際も、ウイリアムスにカットされてからゴーディのパワーボムを喰らって3カウントを奪われてしまうが、今思えば最初の欠場の時点で鶴田の体調に異変が生じ始めていたのかもしれない。

 メインでは三沢がハンセンの保持する三冠ヘビー級王座に再挑戦し、3月の武道館だけでなく、チャンピオンカーニバルの優勝決定戦でもハンセンに敗れた三沢は「負けたら1年間王座に挑戦しない」と断言して背水の陣で挑み、試合はハンセンが頭突きや左腕攻めで試合をリードも、ハンセンが左腕を捻り上げたところで三沢がカウンターのエルボーを炸裂、ハンセンのビックブーツも受けきった三沢がエルボーを浴びせ、ハンセンが前のめりに倒れ、三沢がカバーして3カウントを奪い王座を奪取、三沢が念願だった三冠ヘビー級王座を奪取した。

 10月22日、旗揚げ20周年を記念した日本武道館大会が開催され、メインは三沢vs川田の超世代同士の三冠戦が組まれ、開始から川田がバックドロップが炸裂し、顔面蹴りを浴びせるなどして先手を奪い、10分過ぎには川田のスピンキックが三沢の顔面直撃すると、三沢は脳震盪を起こし意識を飛ばして無意識の状態となってしまう。

 攻勢に出た川田はパワーボムからストレッチプラムで絞り上げるも、三沢はジャーマンスープレックス、タイガードライバーで反撃、しかしフェースロックはダメージのせいで絞めあげるまでには至らない、川田はキックの連打からジャーマンスープレックス、ドラゴンスープレックスとラッシュをかけるも、三沢はタイガードライバーからタイガースープレックスで3カウントを奪い王座を防衛、四天王プロレス時代の幕開けのように全日本の将来形を見せつけた試合となった。


 鶴田はセミファイナルでゴーディ、アンドレ・ザ・ジャイアントと組んでジャイアント馬場、ハンセン、ドリー・ファンク・ジュニア組とのドリームマッチに出場したが、20周年を記念するビックマッチのメインに次世代を担う三沢と川田による三冠戦は時代の移り変わりを象徴するものだったが、鶴田が最前線に立つのはこれが最後となった。


 92年の世界最強タッグ決定リーグ戦では鶴田は田上と組んでエントリーすることが決定していたが、開幕直前となって内臓疾患を理由に欠場することが発表されたが、後になってB型肝炎を発症していたことが明らかになる。田上のパートナーには9月にデビューしたばかりの秋山準が抜擢されたが、鶴田は2度と最前線に立つことはなかった。


 そして12月27日には全日本の旗揚げメンバーであり、長年に渡って馬場を支えてきた大熊元司が急逝し、また翌年になるが1993年1月27日には90年から全日本に参戦してきたアンドレも急逝、二人の死は全日本の時代の変化を予感させるものになり、全日本は三沢を中心とした四天王プロレス時代へと突入した。


 鶴田は1993年10月に復帰したが、ウエートは落ち、再発の危険性があるとして負担のかかるシリーズ参戦もスポット参戦に留まり、また馬場と組んで若手や渕正信、永源遥との悪役商会との6人タッグマッチをこなしていたが、プライベートでは将来を見越してか1994年10月に筑波大学大学院に受験するために勉強を始め、筑波大学大学院体育研究科コーチ学専攻に合格し現役を続けながらも非常勤で大学講師となった。

 1999年に馬場が死去したことをきっかけに鶴田も2月20日に現役を引退、スポーツ生理学の教授待遇としてオレゴン州ポートランド州立大学に赴任することになって家族を伴って渡米、このときは鶴田はアメリカで第二の人生を謳歌していると思われていた。

 2000年5月13日に鶴田は死去、自分はこの訃報をテレビ朝日で放送されていた「ワイドスクランブル」で知ったが、愕然としていたことを今でも憶えている。鶴田の死去の1ヶ月後には三沢が全日本を退団しNOAHを設立、全日本のほとんどの選手、スタッフが追随していったが、馬場だけでなく鶴田の死も時代の変化を予感するものだった。

 "もし"だがこの時点で馬場も鶴田も健在なら三沢へどうバトンタッチされていただろうか、鶴田が健在ならもう少し違った流れになっていたのかもしれないが、四天王プロレス時代はもう少し先になっていたのかもしれない。

伊賀プロレス通信24時

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