1998年11月18日、新日本プロレス京都府立体育館大会の第5試合終了後に、革ジャンとジーンスという邪道の"正装"スタイルである男がリングに乱入した。その男の名は大仁田厚、大仁田はマイクを持ち「俺は大仁田厚じゃ!新日本プロレスに挨拶に参った。俺を上げるのか、ここで返答しろ!」と駆けつけた長州力に果たし状を突きつけた。
1995年5月5日、FMW川崎球場でのハヤブサ戦で引退した大仁田はタレントに転身したが、宿敵であるミスター・ポーゴが引退をする際に「大仁田とタッグを組んで引退したい」とアピールしたことで、12月11日の駒沢大会で大仁田は一夜限りの復帰を果たすも、引退してから7ヵ月後の復帰ということでファンから拒絶反応が起こってしまう。試合を終えた大仁田は駒沢大会後もOBとしてリングに上がることを明言し事実上の復帰宣言をするが、大仁田の突然の復帰は荒井昌一社長を困惑させた。
大仁田引退後のFMWは観客動員は激減したもののハヤブサや田中正人(田中将斗)、W☆ING金村(金村キンタロー)が中心となって新生FMWの路線を確立させ、新しいファン層も獲得しつつあったが、格闘技ブームの影響もあってプロレス界は低迷期にさしかかり、インディーも大きな影響を受け、"多団体時代はもはや限界""いくつかのインディーは淘汰されるだろう”と囁かれていた。大仁田の復帰を決めたのは自ら築いたインディープロレスの低迷に危機感を抱いており、その他が団体が潰れてもせめてFMWだけは生き残れるようにと考えていた上での行動だけでなく、タレントに転身したとしても好きだったプロレスは捨て切れなかったからだった。
大仁田復帰後の新生FMWは、メジャー挑戦路線と邪道プロレス継承路線をFMWのコンセプトにしてして、メジャー挑戦路線の一環としてハヤブサを師匠だったジャイアント馬場の話し合いの末、全日本プロレスに参戦させ、田中と金村には邪道継承路線の一環として「俺が邪魔か?邪魔なら排除しろ!」と迫り、自分との対戦を煽った。大仁田はタレント活動の合間を縫ってFMWにスポット参戦し満員を記録することが多くなり、特に集客に苦しんでいた地方は大仁田の参戦は歓迎したものの、復帰してからの大仁田の仕掛けは新生FMWのスタイルとは相容れず空振りに終わり、大仁田自身の試合内容も精彩を欠いた。1997年9月28日のFMW川崎球場大会でも大仁田は金村と金網電流爆破マッチ、ハヤブサは新崎人生と組んで全日本から参戦した小橋健太&マウアケア・モスマン(太陽ケア)のダブルメインイベントとして組まれていたが、評価を受けたのは大仁田vs金村の前に行われた小橋組vsハヤブサ組の一戦で、内容で食われてしまった大仁田vs金村は淡白な試合となって野次が飛び交ってしまったのだ。
大仁田はFMW内の団体として「ZEN」を設立したが、冬木弘道率いる冬木軍がFMWに参戦すると「ZEN」を離脱した金村とミスター雁之助が合流して「チーム・ノーリスペクト」を結成、大仁田と冬木は抗争を繰り広げたが、1998年5月5日の横浜文化体育館で行われた大仁田vs冬木の直接対決では大仁田は完敗を喫して、FMW内での居場所も失い、FMWも大仁田排除に一気に舵を向ける。
その後で荒井氏は大仁田に対して選手会の総意としてからの撤退を勧告する。この頃の大仁田とFMWは大仁田へのギャラの支払いを巡ってトラブルも起きており、亀裂は埋め難いものになっていた。またFMWはディレクTVと「3年3億円」で契約を結び、大仁田抜きでやっていける体制は整えたことで、もう大仁田は必要ないとしたのだ。大仁田はFMW側の勧告を受け入れた。実は大仁田も自身の復帰が歓迎されていない空気を察しており、試合をやっていても楽しくないことが多く、またハヤブサらの成長も内心では認めていた。今思えばFMWからの撤退要求は大仁田自身も案外望んでいたものだったのかもしれない。
9月1日の札幌大会で後で大仁田は会見を開き、FMWからの離脱を表明、去就が注目されたが11月1日の小倉大会で「FMWを愛するファンに告ぐ。俺は全日本、新日本プロレスに行く!俺はオマエらの意気込みを全日本、新日本に持っていく!」とメジャー進出を宣言するが、9月の時点で大仁田は週刊ゴング誌の大仁田番記者だった吉川義治氏を通じて新日本番だった金沢克彦氏に「長州さんと試合をしたいから協力して欲しい」と依頼していたのだ。
この頃の長州は1月4日の東京ドーム大会で引退し現場監督に専念していたが長州は大の大仁田嫌いで通っており、金沢氏とのインタビューでも大仁田のことを聴くと「アイツの名前はオレの前では二度と出すな!」と言い放っていたぐらいだった。金沢氏はこのことを長州に話したが、長州は「そういう問題は永島に振れって」としか答えず頭から拒絶はしていなかったが、長州も大仁田が本気でFMWを離脱するのか真意を図りかねていた。しばらくして大仁田が日本スポーツ出版社の社長になっていた竹内宏介氏を通じて新日本に向けて参戦に向けてオファーをかけてきた。大仁田は新日本だけでなく、かつての古巣である全日本プロレスにも竹内氏を通じて参戦へ向けて働きをかけていたが、この頃の全日本は三沢光晴が提唱した三沢革命によって、三沢が現場を仕切っており、三沢も大仁田を嫌っていたこともあって、馬場の一存では決められず交渉は決裂としていた。
大仁田側と新日本の代理人である永島勝司氏の間で話し合いが持たれ、新日本参戦に向けて基本的な合意は達したが、全体会議でオーナーだったアントニオ猪木が「アイツは危険なんだ。大仁田のプロレスに勝ち負けは関係ねえんだから、終わってみれば会場は大仁田の世界になっている。自分から『オレは弱い』だの『強さを求めてない」って、最初から勝負論を必要としない人間としたら、新日本プロレスがやってきたことは否定されることになるだろう、試合に負けたって、あいつの世界は崩れることはない。だから大仁田の存在を消すのは不可能なんだよ」を持論を立て猛反対する。猪木も一度大仁田から対戦要求を突きつけられていたが最終的に避けた。理由は猪木の大仁田嫌いとされているが、大仁田嫌いだけでなく、同じリングに立てば勝とうが負けようが存在を打ち消すことが出来ず、全て美味しいところを持っていかれると懸念していたからだった。また現役を退いた猪木は新団体「UFO」を立ち上げており、新日本vsUFOの抗争を新日本の戦いの軸に据えようとしていたことから、猪木にしてみれば「大仁田に頼らずとも、オレがいるじゃないか」と考えていたのかもしれない。
新日本もドーム興行を開催するのにあたってネタが枯れ始めており、またインディー潰しのために仕掛けた「新日本プロレス対インディー連合軍」も標的としたターザン後藤と高野拳磁が乗らず、大日本プロレスしか参戦しなかったことで空振りに終わっていた、しかしインディーの盟主とされた大仁田が自分から新日本に乗り込んできた。新日本としても集客力を含めた格好の素材を見逃すわけにはいかず、興行的な見地から猪木の反対を押し切ったが、猪木は大いに不満だった。この猪木の不満が橋本真也vs小川直也による1・4東京ドーム事変に大きく繋がっていった。(続く)
(参考資料 金沢克彦著「子殺し」 日本スポーツ出版社「あの話、書かせて貰いますⅡ」、田崎健太著「真説・長州力」)
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