キングコング・バンディ

 WWF(WWE)ではハルク・ホーガン、新日本プロレスではアントニオ猪木と対戦したキング・コング・バンディさん(本名クリストファー・アラン・パリス)が死去した。享年61歳。


 バンディは初来日は新日本プロレスだが、1982年5月5日にはテキサス州ダラスにてジャイアント馬場の保持するPWFヘビー級王座に挑戦しており、馬場の16文キックに敗れている。しかし馬場は全日本ではなく旗揚げしたばかりの第1次UWFにバンディを来日させるつもりだったという。第1次UWFは新間寿氏とのルートでWWFとの提携を目論んだが、WWFは新日本プロレスとの提携を優先したため、アメリカからの外国人選手ルートを確保することが出来なかった新間氏は馬場に外国人選手を派遣して欲しいと依頼、馬場は外国人ブッカーだったテリー・ファンクを通じてUWFに外国人選手を派遣したが、派遣される選手の中にバンディがリストアップされていた。おそらく馬場もUWFでの実績を見て全日本へと考えていたと思う、だが既にバンディ自身がダラスを離れていたため、UWFには来日することはなかった。


 1985年1月に新日本プロレスに来日したが、前年度に長州力ら維新軍団だけでなく中堅・若手選手もこぞって離脱してジャパンプロレスへと移り、またWWFもビンス・マクマホン・シニアからビンス・マクマホンに代替わりして全米侵攻を始めたことで、新日本へ主力選手を派遣を出し渋っていたことから、WWFとは別に外国人ルートを開拓せざる得なくなっていた。そこで国際プロレスで外国人ブッカーだった大剛鉄之助が新日本の顧問となっていた吉原功(元・国際プロレス社長)の招きで新日本の外国人ブッカーに就任、その大剛が最初に発掘した選手がバンディだった。 


 シリーズに途中参加したバンディは猪木と2月5日の愛知、6日の大阪で1万5000ドルの賞金をかけたボディスラム・マッチ2連戦を行い、当時の実況アナである古館伊知郎アナはバンディのことを闘うシロナガスクジラ」「闘うひよ子のお菓子」「闘うマシュマロマン」と表現していた。大阪ではバンディがボディースラムで猪木を投げることが出来たが、試合は猪木の勝利。この頃の新日本は全日本&ジャパンの連合軍に話題を持っていかれていたことから、ボディースラムマッチは苦肉の策に過ぎず、大きな話題にもならなかったが、おそらくこの2連戦で新日本内でのバンディの評価が決まってしまったと思う。


  また3月には全日本ブルーザー・ブロディが移籍、WWF勢もハルク・ホーガンやアンドレ・ザ・ジャイアントもまだ参戦していたこともあって、バンディの存在はどんどん薄くなり、新日本ではトップを取ることが出来ず、新日本が逆ブッキングという形でWWFへ移籍していった。新日本もバンディは長い目で見て育てていこうと考えていたら、新日本でトップ外国人になりえた存在だったかもしれない。 


ご冥福をお祈りします。