(11日大日本プロレス・東京ドームホテル札幌大会でアジアタッグ選手権の試合後=週プロモバイルより)
イサミ「なんとか札幌でも防衛することができました! 札幌の地で、小鹿さんに認定書読んでもらって、小鹿さんからベルトを返還してもらって、ホントに嬉しい限りです! ですがね、私は思いました。小鹿さん、あなたはもう認定書を読むだけで十分なんですか!? あなたはベルトを返還するだけでもう満足なんですか!? もうアジアタッグには興味がないんですか!?(小鹿がくる)小鹿さん、端的に言いますよ! 僕らのこれ以上ないオヤジ狩りに付き合ってもらえませんか?」
小鹿「あのさ、オマエらのきょうの試合最高だったよ。挑戦者の丸山、竹田選手。素晴らしい試合だよ。だけど俺はリング上がってる以上は、このベルト、一回もあきらめたことない。もし、そのベルトに挑戦するとしたら、俺の腹の中は、パートナーは決まってるんだ!(とマイクをイサミに渡す)」
イサミ「俺は無理ですよ! パートナーは決まってる? 私とですか?」 宮本「大熊さんはいませんよ」
小鹿「オマエらとぼけるんじゃねえよ。死んだヤツが、なんで出てくるんだよ。大日本の看板をしょってるあるレスラーだよ。これだけしかいまは言えない。ただそれだけや!」
イサミ「パートナーが決まってると言うんだったら、小鹿さん、勝負しましょうよ。パートナーは関係ないですよ。僕らが狙うのは小鹿さん一人なんで。一方的に狙い続けます。私の足のように、一方的に狙い続けます。僕らは狙い続けますよ。小鹿さんとアジアタッグができることを夢見て願い続けましょう、防衛し続けましょう」
11日大日本プロレス・東京ドームホテル札幌大会でアジアタッグ選手権が行われ、王者のヤンキー二丁拳銃(木高イサミ、宮本裕向)が丸山敦、竹田誠志を降しアジアタッグ王座を防衛したが、試合後に今年で28日で74歳を迎えるグレート小鹿がアジアタッグ王座に挑戦を表明した。決定となれば(全日本=PWFの承認待ち)小鹿がアジアタッグに挑戦するのは1983年以来で33年ぶりとなる。 小鹿は過去アジアタッグ王座を5回戴冠しており、うち4回は大熊元司との極道コンビでの戴冠だった。
アジアタッグ王座は元々日本プロレス時代からのタイトルで力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木なども戴冠したことがあったが、インターナショナルタッグ王座が定着してからは№2のタイトルに格下げ、日本プロレス崩壊後は一時封印されたが、新日本プロレスが独自にアジアタッグ王座設立に動いたため、全日本プロレスが新日本への牽制で日本プロレスからアジアタッグ王座を権利を獲得し、NWA公認PWF認可のベルトとして復活、王者には小鹿と大熊の極道コンビが着き、ジェリー・オーツ&テッド・オーツ、高千穂明久(ザ・グレート・カブキ)&サムソン・クツワダ、当時国際プロレスの所属だったマイティ井上&アニマル浜口組に王座を明け渡したものの、極道コンビはすぐ奪還、(4回目の王座奪取は防衛期限切れで王座が剥奪され、王座決定戦で奪還=決定戦の相手はザ・キウイズと名乗っていたザ・ブッシュワッカーズ、後にWWE殿堂入り)、1976~1981年のアジアタッグ戦線は極道コンビの独壇場だった。
だが1981年に極道コンビはケビン・フォン・エリック&デビッド・フォン・エリックのエリック兄弟にアジアタッグ王座を明け渡すと、これを契機にアジアタッグ戦線の若返りが図られ、ブッカーに就任した佐藤昭雄、石川隆士、国際プロレスから移籍した阿修羅・原、井上がアジアタッグ戦線の中心となり、極道コンビは1983年2月、3月に当時王者だった原&井上に挑戦したが、2度とも敗れ王座奪取はならず、極道コンビは二度とアジアタッグ王座に挑戦することはなかった。
その後小鹿も全日本を離れたことで極道コンビも解消、1992年に全日本に留まった大熊も死去した、関本大介&岡林裕二がアジアタッグ王座を獲得したことで、小鹿とアジアタッグ王座の縁が復活し、33年ぶりに挑戦しようとしている。
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