24日の超花火・大阪大会で船木誠勝のキックを受けた際に右手を鉄柱に直撃し骨折してしまった大仁田厚が会見を開き、欠場が濃厚とされていた新団体「ファイヤー・プロレス」のに旗揚げ戦(26日、ディファ有明)に強行出場することを発表された。
大仁田の右手の骨折は全治3ヶ月の重傷、1日に入院し2日に手術する予定だという、医師の立場からすればドクターストップかもしれないが、大仁田は師匠であるジャイアント馬場さんを引き合いに出していたものの、FMWもファイヤープロレスも大仁田が主役だけに安易に休めないというのもあるのかもしれない。
そして記事のなかで注目したのはチャボ・ゲレロの存在、1982年3月ノースカロライナ州シャーロッテでチャボが保持していたNWAインターナショナルジュニアヘビー級王座に海外武者修行中の大仁田が挑戦した、当時の日本マット界は新日本プロレスが初代タイガーマスク人気に沸いており、ライバル団体だった全日本もジュニアに力を入れざる得なくなり、ジュニアのエース候補として大仁田を抜擢、大仁田は回転エビ固めで3カウントを奪い王座を奪取し期待に応えた。全日本にしてみれば藤波辰爾がニューヨークMSGでWWFジュニア王座を奪取したように、大仁田も海外で王座を奪取したということでシンデレラスターとして扱いたいという思惑もあったのかもしれない。
大仁田とチャボの戦いはこの1戦に終わらず、日本に移って戦いが継続し、1982年7月にチャボが挑戦するもジャーマンスープレックスが崩れてダブルフォールとなり、王座は一旦PWF預かりとされると、王座決定三番勝負が組まれ、1勝1敗の後での決着戦では大仁田が逆さ押さえ込みでチャボを下し王座を奪還も、試合後にチャボが勝利者トロフィーを奪って大仁田を殴打する暴挙を働いたことで、抗争は継続かと思われたが、翌年に大仁田が左膝を骨折したため王座を返上、王座は決定リーグ戦を制したチャボに戻り、抗争相手は大仁田からマイティ井上へと変わったことで二人は二度と対戦することはなかった。
大仁田の歴史の中でもチャボはどうしても欠かせない存在、二人が揃うときは邪道・大仁田ではなくシンデレラスターだった大仁田を思い出すかもしれない
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