1999年1月31日


1999年1月31日、午後4時4分、ジャイアント馬場さんが永眠した、享年61歳だった。  馬場さんが死去したという一報が流れたのは、馬場さんが死去してから翌日の2月1日、自分がちょうど夜の19時頃TBSで放送していた「東京フレンドパーク」を見ていた最中にニューステロップで流れ、突然の訃報に愕然としていたことを今でも憶えている。  馬場さんの最後の試合を見たのは前年である1998年11月17日の大阪なみはまドーム大会、馬場さんはいつもどおり試合をしていて異常を感じさせなかったのだが、12月に入って突然欠場となり、全日本側から風邪で欠場と発表されたときは「今年の風邪はそれほどタチが悪いのかな」と思っていた程度で、最終戦である12月5日に復帰したときは安心していた。  しかし1999年1月の新春ジャイアントシリーズから突如欠場、内臓疾患で療養中としか発表されておらず、いずれ元気な姿を見せるものだと思い、また週刊ファイトではこの年の5月に開催される東京ドーム大会から復帰と報じていた。  馬場さんが死去してから3月に全日本プロレス愛知県体育館大会を訪れていたが、自分はどうしても仕事の都合で4月17日のファン葬に出席できないため、せめてこの大会で顕花をと思ったが、グッズ売り場では主のいない馬場さんのイスがあった。このグッズ売り場に馬場さんが座っていないことで改めて馬場さんの死を実感し、ファン葬には出席できない代わりに、5月1日の東京ドームで開催された「ジャイアント馬場引退試合」には駆けつけ、馬場さんに別れを告げた。  死去する前に馬場さんは三沢光晴と元子夫人の対立に悩んだ際に「全日本はもういいか、後は三沢プロレスなり小橋プロレスをやればいい、オレは全日本の看板を持って出ていくから」と和田京平さんにこぼしていたが、皮肉にも全日本プロレスの看板は代替わりしながらも、馬場さんの教えを乞うた秋山準に受け継がれている。  天国で馬場さんは現在の全日本プロレスをどう見ているだろうか・・・、今年も1月31日を迎える。


伊賀プロレス通信24時

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