新日本プロレス2月の札幌伝説が始まったのは1984年2月3日札幌中島体育センターで行われるはずだった藤波辰己vs長州力における藤原喜明テロ事件から始まった。
事件の背景は何だったのか?この大会のプロモートは大塚直樹氏の「新日本プロレス興行」で大塚氏が副社長である坂口征二に「藤波vs長州を組んで欲しい」と依頼し組まれた試合だった。
大塚氏の「新日本プロレス興行」は新日本の関連会社で、前年の1983年に起きたクーデター事件に関わったとして大塚氏は新日本を去る決意を固めていたが、社長のアントニオ猪木から「新日本プロレス興行」という会社を譲り受け、新日本の興行を請け負っていた。しかしクーデターの首謀者の一人である大塚氏が新日本に関わっていることを良く思っていない人間も多く、猪木自身も「新日本プロレス興行」の創立記念パーティーに出席しないなど距離を取りはじめたことで、大塚氏は猪木に不信感を抱くようになっていた。
そして藤原テロ事件が起き、首謀者は猪木とされているが、なぜ事件が起きたのか、猪木は坂口が決めたマッチメークに対して「こうすれば面白くなる」とばかりに選手をけしかけるなどしてカードをいじることが度々あった、藤波vs長州も猪木にしてみれば「何度もやっているカードだしマンネリかな」と感じ、試合を盛り上げるためにアニマル浜口と谷津嘉章ら維新軍団に血祭りにされた藤原をけしかけて事件が起こさせた。
しかし藤波vs長州が行われなかったことを受けて観客は激怒し、大会が終わっても納得しないファン数十人が居残り大塚氏らに抗議した。ファンからの信用を落とされる形となった大塚氏は猪木だけでなく新日本に対する不信感から「新日本プロレス興行のメンツを潰すために猪木に試合を潰された!」と嫌がらせを受けたと勘ぐった。今思えば猪木はただ面白ければいいという考えが、大塚氏の不信感を増幅させる結果なった。
このテロ事件をきっかけに藤原も成り上がったが、その藤原も半年後にUWFへ移籍、大塚氏もジャイアント馬場さんの全日本プロレスと組んでジャパンプロレス創設へと動き、新日本から長州ら維新軍団だけでなく、永源遥ら中堅・若手を引き抜いて新日本の屋台骨をぐらつかせた。
一つの事件をきっかけに波紋が広がったが、誰もが新日本の屋台骨までぐらつかせるとは、誰が想定しただろうか…
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