1983年8月31日、全日本プロレス・蔵前国技館大会でテリー・ファンクが兄であるドリー・ファンク・ジュニアと組んでスタン・ハンセン、テリー・ゴーディを相手に引退試合を行った。
1980年10月、「ジャイアントシリーズ」に参戦するためにテリーが来日するも「私は3年後の1983年6月30日の誕生日に引退をする」と引退を発表、テリーの突然の引退発表に会見場は騒然となった。テリーは全日本プロレスの旗揚げから全日本の常連外国人として定着、アブドーラ・ザ・ブッチャーとの抗争で女性ファンのハートを掴み人気選手の一人となっていたが、「第8回チャンピオンカーニバル」参戦後にかねてから痛めていた膝を手術していた。テリーの発表は全日本プロレスどころかジャイアント馬場にも事前に知らされておらず、テリーの引退は全日本にとって大打撃だったが、全日本は次第にテリーの引退をビジネスにしようと考えていく。
テリーの引退が迫った1983年、全日本プロレスは同時期に開催されていた新日本プロレスの「第1回IWGP」への対策として、春の本場所である「チャンピオンカーニバル」を休止し、豪華外国人を招いての通常シリーズ「グラウンドチャンピオンカーニバル」を3シリーズに向けて開催、そして7~8月に「テリー・ファンクさよならシリーズ」を開催するために、6月30日に引退するテリーの引退をスライドさせた。ちょうど新日本プロレスはアントニオ猪木がハルク・ホーガンのアックスボンバーを喰らってKOされ欠場していたことから、テリーを使って猪木不在の新日本に攻勢をかけた形となった。
テリーの引退は夏休み最後の日である8月31日の蔵前国技館に決まり、日本テレビも「土曜トップスペシャル」のスペシャル枠で録画ながらも7時半からの9時まで放送されることが決定した。当時の『全日本プロレス中継』は土曜夕方の5時半から6時半に放送されていたが、これは土曜8時時代は読売ジャイアンツの野球中継が入った時には深夜枠に移動されることもあって視聴率的に不安定だったこともあり、時間枠に左右されないために敢えて夕方5:30の枠に移行、夕方で録画放送ながらも安定した視聴率を稼いでいた。だがゴールデンタイムへの復帰は諦めておらず、今回はゴールデンタイム復帰への布石としてテリーの引退をゴールデンタイムでの特番で放送することになった。
テリーの引退の相手は因縁のハンセンとなったが、パートナーには初来日のゴーディが抜擢された。ゴーディはテキサス州ダラスでマイケル・ヘイズとフリーパーズを結成し、エリック兄弟相手に抗争を繰り広げることでトップを取っていた選手で、馬場も1982年にアメリカ遠征をした際にジョージア州アトランタでPWFヘビー級王座をかけてゴーディと対戦していた。そのゴーディを強く推したのは、この時全日本のブッカーに就任していた佐藤昭雄であり、初来日したゴーディは初戦でハンセンと組んで、ジャンボ鶴田&天龍源一郎の鶴龍コンビと対戦し、ゴーディは天龍に当時はまだ珍しかったパワーボムを披露して3カウントを奪い、ファンに大きなインパクトを与えたが、ファンだけでなく天龍にも大きなインパクトを与え、後に天龍自身もパワーボムを会得してフィニッシュに使うようになる。
8月31日の蔵前国技館、13600人の観衆が集まる中テリーの引退試合が行われ、試合前に当時の全日本プロレスの社長だった松根光雄氏から感謝状が渡され、馬場も握手で激励した。
試合はドリーがハンセン組に捕まり、たまりかねたテリーがカットに入る。やっとドリーから交代を受けたテリーはハンセンにナックルを連打を浴びせて流血に追い込むも、ハンセンもテリーの額に噛み付き、テリーも流血する。ハンセンは失速したテリーの古傷である右膝をゴーディと共に攻め、ゴーディもテリー相手に掟破りのスピニングトーホールドを敢行、館内の女性ファンから悲鳴が起こる。
ハンセンに頭突きを浴びせたテリーはドリーに交代。ドリーはドロップキックの連打やバックドロップで試合を盛り返していく、ドリーはハンセンを場外へ引きつけている間にテリーはコーナーからの回転エビ固めでゴーディを丸め込んで3カウントを奪い、ラリアットを見せる間もなく敗れたハンセンはテリーに襲い掛かるだけでなく、若手らに八つ当たりウエスタンラリアットを浴びせ退場していった。
試合後にテリーはマイクを持ち「アイラブユー!フォエーバー!ジャパン・ナンバーワン!フォーエーバー!サヨナラ!グッパイ!アイラブユー!」と涙ながらに叫び、館内の女性ファンたちは号泣し、「スピニングトーホールド」が鳴り響く中、テリーはリングを去っていった。
テリーの引退試合を放送した全日本プロレスの特番は視聴率14.3%記録、裏番組にフジテレビの「おれたちひょうきん族」テレビ朝日は「暴れん坊将軍Ⅱ」、TBSが「8時だよ全員集合!」が放送されている激戦区の中で数字を稼ぎ、これを契機に全日本プロレス中継はゴールデンタイム復帰に向けて布石を打っていく。中継中に実況の倉持隆夫氏や解説の山田隆などは「テリー・カンバック待望論」を出していたが、この時点でマスコミや全日本、またファンもテリーの引退を信じて疑っていなかった。全日本プロレスもテリーの引退、また同日に鶴田がブルーザー・ブロディを破りインターナショナルヘビー級王座を脱したのを契機に、鶴田、天龍、ハンセン、ブロディを中心とする路線をスタートさせようとしていたため、テリーを復帰させるつもりはなかったが、テリーはこのまま引退しようとしなかった。
83年の世界最強タッグにはドリーは馬場と組んでエントリーし、テリーはそのマネージャーとして来日したが、ハンセン&ブロディとの公式戦で超獣コンビに圧倒されるドリーにたまりかねて、テリーは手を出してしまい、カンバックへ向けて伏線を張る。そして84年8月26日の田園コロシアム大会で特別試合として同カードが組まれ、ハンセンの挑発に乗ったテリーは遂にハンセンに襲い掛かってカンバックを宣言、84年の最強タッグにドリーと組んでファンクスとしてエントリーするも、全日本は既に鶴田&天龍時代へと突入、また全日本に参戦目前だった長州力の存在もあり、ファンから支持されなかった。いや今思えばテリーの引退はファンにしてみれば「あの涙の引退は何だったんだ!」であり、テリーのカンバックは裏切りと捕らえられてしまったのだ。
だがテリーの引退~カンバックを契機に、日本でも引退~カンバックという前例が出来上がったのも事実だった。テリーも今年で74歳を迎えたが、体調が許す限りはリングに上がり続ける、結局レスラーである気質が抜け切れない限り、テリーに引退という言葉はないのかもしれない。
(参考資料 日本プロレス事件史Vol.15『引退の余波』)
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