新日本プロレスvsUWFインターナショナルはこうして実現した!

 1995年8月12日、新日本プロレスの「G1 CLIMAX」は両国三連戦に突入しようとしていた。この年のG1はWCWからリック・フレアーが参戦するなど大きな話題を呼んでいたが、舞台裏ではUWFインターナショナルが新日本プロレスに対してフリーで参戦していた山崎一夫の出場停止を勧告する通知書を送り、マスコミに向けてFAXで公開した。

 山崎一夫はUWFインターナショナルではNo.2の存在だったが、Uインターのマッチメークをしている宮戸優光はUインター旗揚げの際に、前田日明側に着くと思われていた山崎が最後になってUインターに合流したことで山崎を嫌っており、山崎とは新日本時代から同期だった高田延彦の顔を立ててNo2として扱ってはいたが、実質上は咬ませ犬として扱い、マッチメーク上でも冷遇していた。その山崎がUインターを離脱し、当時険悪な関係だった新日本にフリーとして参戦を表明し、7月25日の平成維震軍興行の横浜文化体育館大会に参戦、また8月12~15日のG1三連戦でも特別参戦することが決定していた。山崎がUインターを離脱した理由は、宮戸が山崎を嫌っているように、高田は立てても自分を立てようとせず、後輩ながら指示してくる宮戸を山崎も嫌っていた。その山崎の状況を知った新日本が声をかけ一本釣りをしたのだ。

 G1最終戦が行われた15日、安生と鈴木健のUインター両取締役が会見を開き、「山崎の契約は平成8年(1996年)5月30日まで残っている。新日本プロレスともあろう団体がウチの山崎一夫に頼らなければ、お客さんが呼べないのか」と非難すると、新日本の現場監督である長州力は「山崎と高田のところ問題で、お門違いだぞ。なぜ敢えて最終戦の今日、会見をやるんだ。俺に言わせれば三馬鹿(安生、鈴木、宮戸)がギャーギャー言っているだけ、これ以上言っちゃうと罵り合いになっちゃうから、俺はコメントにならないってことです」と呆れ気味に語れば、永島勝司企画営業部長も「冗談じゃないよ、話し合いにならない」と怒りを露わにしていたが、長州が三馬鹿と称していた一人である宮戸はこの時点で何故か表に出てこなかった。

 マスコミも「新日本とUインターが、また揉めている」としか考えていなかったが、実は高田の引退発言から永島氏は取締役だった倍賞鉄夫氏と共に鈴木健氏と極秘裏に会い、話し合いの上で両団体の若手同士の対抗戦が持ち上がり、その延長線上で全面対抗戦に発展していったのだ。新日本も4月28、29日に北朝鮮で開催された『国際平和のための平壌スポーツ国際文化祭典』で北朝鮮側は二億五千万をギャラとして新日本に支払うとしていたが、実際その約束はされておらず、全て猪木と永島氏が北朝鮮で『平和の祭典』をやりたいがために、新日本から金を引き出すための嘘で、経費は全て新日本持ちだったため、新日本は二億円の負債を抱える羽目になり、北朝鮮大会を推進し、また猪木から全責任を押し付けられた永島氏は追い詰められた状況に立たされていた。

 一方のUインターは各団体のエースに招待状を送ったことで話題を呼んだ『1億円トーナメント』が結局不発に終わったことで観客が激減し始め、起死回生のためにヒクソン・グレイシーに挑戦を表明するも、安生洋二がヒクソン・グレイシーの道場破りを敢行して敗れ、大失敗に終わった"ヒクソンショック"の影響で"最強"を掲げたUインターのイメージを大きく低下させてしまい、客離れに歯止めがきかず、宮戸の方針で特定のスポンサーがなかったこともあって運転資金も乏しくなっていた。社長として団体経営に疲れた高田は突如引退宣言をして参議員議員選挙に出馬するも落選、また経営に理解のない宮戸が経理を担当している鈴木健氏が不正をしていると一方的に追求するなど、Uインターは内部崩壊でバラバラの状況になっていた。

 これまで険悪とされた新日本とUインターが突如雪解けしたのは、双方の利害が一致したからで、互いにプラスになる話になるはずと考えていたからだった。だが永島氏はUインター側と接触には長州は出さず、安生もこの頃には事務所すら顔すら出さなくなっていた宮戸に何も言わなかった。理由は長州と宮戸が交渉の場に出てくると感情的になって揉めて対抗戦は潰れることを懸念したからで、特に長州は「業界の秩序を乱すヤツ」として宮戸を嫌っており、宮戸もプロレスの本質を潰そうとする長州を嫌っていた。おそらく鈴木健氏や安生も同じ考えだったはず、山崎の出場停止を求める勧告も双方が考えていたシナリオで、長州はまだこの時点で宮戸がUインターにまだ関わっているのか確認できていなかった。

 G1が終わって三日後の18日、長州の署名入りの返答声明ががマスコミだけでなく、Uインター側にFAXで送付され、「速やかな解決を望むならば、代表取締役である高田延彦氏が我々の前面に出て意見を言うべきだろう」と高田に対して返答を求めることを要求してきた。Uインターは高田の社長はあくまで名目上に過ぎず、渉外などフロントなどは、宮戸や鈴木健氏が前面に立って取り仕切ってきた。長州は宮戸や鈴木健氏でなく高田に対して社長としての返答を求めてきたのだ。

 そして24日、長州は新日本の事務所で会見を開いたが、同時刻にUインターも高田が会見を開いていた。長州はマスコミに向けてUインター側に暴言を吐いたことを謝罪、取材に来ていた東京スポーツにUインターに対して「テーブルに着きたい」と話し合いの用意があることを告げて欲しいと依頼、Uインターを取材していた東スポ記者を通じて長州の意向が伝わると、長州と高田による電話会談が実現、会談を終えると長州はフロントに「ドームを押さえてくれ!」と指示、そして10月9日、東京ドームで新日本プロレスvsUWFインターによる全面対抗戦が急転直下で実現することになり、マスコミの前で「全部、個人戦(シングル)だぞ。向こうの選手、全部出す。ウチも出すから、相手がどうのこうので試合が出来る、出来ないは言わせないぞ。Uは(10・9)東京ドームで消す」と断言した。



 長州が交渉の前面に突然出たのは、宮戸はUインターから外されていることを確認した上のことで、いずれUインターを潰す機会を伺っていた長州も宮戸がいないなら話し合いをしやすいと考えて、ここで前面に出てきたのだ。後は長州と高田の直接会談次第だったが、実はUインターも安生が新日本プロレスとの対抗戦を薦めていることを察知した宮戸は「対抗戦はUインターにとって命取りになる」と考え、対抗戦を潰すために安生に辞めるように進言するが、安生は「団体を生かすためだ」として聞く耳を持たず、それでも諦めない宮戸は田村潔司や高山善廣など若手選手達を集め、新日本との対抗戦には出ず、高田や安生、鈴木健氏を見捨て、田村を中心とした新団体を旗揚げしようと持ちかけた。宮戸にとってUインターや高田延彦は自身がプロデュースしてきた最高傑作であり、宮戸も高田を自身が尊敬するアントニオ猪木のような大スターにプロデュースしたという自負があったが、そのUインターや高田が自身の考えと違う方向に走り出したことに我慢できなかった宮戸はクーデターを企て、自身の言うことを聞かなくなった安生や鈴木健、そして高田までも切り捨てようとしたのだ。しかし宮戸の話に誰も乗ろうともしないどころか、クーデター計画が高田に知ることになって怒りを買ってしまい、宮戸は居場所を失ったかのようにUインターを去っていった。

 宮戸が排除されたことで新日本vsUインターの全面対抗戦に向けて大きく前進。10・9が実現したが、結果はご存知の方が多いことから敢えてもう触れない。だが2日後の10月11日に開催されたUインター大阪大会を生観戦していた一人の意見とすれば、6月の高田の引退発言の時点で宮戸が作り上げたUインターは時点で完全に崩壊寸前で、新日本との対抗戦で止めを刺された。「宮戸が対抗戦を仕切っていたら違った結果になっていた」という声もあるが、宮戸はグレイシー道場破りの失敗から、求心力の低下しいたには明らかであり、仮に指揮をしていても宮戸の考える通りには動かず、裏切る結果になっていたと思う。宮戸は「Uインターは自分が作った団体」としているが、これまで宮戸はUインターのために敢えて嫌われ役となっていたが、発言力が増大していくにつれて、高田を始めとする選手達は心を離れ、いつの間にか孤立していたが宮戸はそれに気づいていなかった。高田も「Uインターは宮戸だけの団体ではない」と内心面白くないものを感じており疎んじていたのではないだろうか、長州との会談や対抗戦にGOサインを出したのは、高田が"Uインターは宮戸の団体ではない、自分の団体だ!"と示すためだったのではないだろうか…

 宮戸は対抗戦を「Uインターを潰すために、プロレスにあるべき強さそのものまで斬り捨ててしまった、でも切りすぎですよ、Uインターという団体だけでなくプロレスの本質、その根っこまでぶった切ってしまった」と語っていたが、翌年にUインターは崩壊したが、次なる荒波としてK-1、PRIDEなど格闘技の波が押し寄せようとしていたことを考えると、長州は格闘技からプロレスを守るためにUインターを潰したのか、また宮戸も格闘技からプロレスを守るためにUインターを防波堤としたかったのか…

(参考資料=日本プロレス事件史Vol.11、田崎健太著「真説・長州力」 「証言 UWF最終章」)