1982年10月8日の後楽園ホール大会で新日本プロレスの新シリーズ「闘魂シリーズ」が開幕、金曜8時から放送されていた「ワールドプロレスリング」も、当初はプロ野球中継が入っていたが、雨で野球が中止となり、急遽後楽園大会が生中継で放送されることになった。
だが生放送がスタートすると同時に9月21日の大阪府立体育会館大会でアントニオ猪木に敗れ、ルールである髪切りを行わずに逃亡したラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇のはぐれ国際軍団が乱入してリングジャックし、駆けつけた新日本勢相手に乱闘となってしまう。はぐれ国際軍団は髪切りマッチに敗れ逃亡する際に猪木から新日本マットからの永久追放を言い渡されていたが、猪木の措置に納得できないはぐれ国際軍団は猪木との再戦を要求する声明文を公開してリングを後にする。しかし大会の主役を奪ったのは木村たちではなく、メキシコUWA遠征から帰国した長州力だった。
長州は専修大学レスリング部出身でミュンヘンオリンピックにも出場し(在日朝鮮人だったこともあって、韓国代表での出場だった)、早稲田大学レスリング部OBでテレビ朝日の運動局長であり"ワールドプロレスリング"の産みの親でもある永里高平の仲介で新間寿氏からのスカウトを受け、新日本プロレスに入門、同時期に全日本プロレスでジャンボ鶴田が全日本入りを果たしていたことから、新日本も対抗するために長州を新日本に入門させるも、新間氏の本音はあくまで欲しかったのは長州ではなく鶴田だった。
長州は海外武者修行に出された後で帰国、リングネームも本名の吉田光雄から現在の長州力に改めたが、華やかさに欠け無骨な長州のスタイルは受けず、新間氏も長州は自分が望んで入団させた選手でないことから大きくプッシュしようとしなかった。1978年にニューヨークMSGという大舞台でWWFジュニアヘビー級王座を奪取した藤波辰己が凱旋を果たすと、長州はたちまち脇役へと追いやられ、外国人相手の噛ませ犬扱いとされていった。坂口征二が自身のパートナーに長州を抜擢したことで、長州も自身の初タイトルである北米タッグ王座を奪取して猪木、坂口、藤波に次ぐ"第4の男"の地位にまで上がるがブレイクするまでには至らず、ジュニアで人気を博していた藤波との差も開く一方だった。
昭和57年1月1日の後楽園大会で行われた元日決戦では後にパートナーになる浜口と対戦して、後に自身のフィニッシュとなるリキラリアットを披露、今年の長州は一味違うと思わせたが、シングルのリーグ戦である「第5回MSGシリーズ」では、谷津嘉章とタイガー戸口と引き分けただけで1勝も上げられず、0勝10敗という不成績で終わり、猪木だけでなく藤波にも負けた長州はどん底にまで叩き落されてしまう。
シリーズが終わると長州はメキシコ行きを志願する。長州は後年「逃げたんですね」「身体がきつくてメキシコに行かせて欲しいと頼んだようなものですね」と答えていたが、会社の期待に応えられなくなり、心身ともにガタガタだった。ちょうどメキシコUWAからヘビー級の選手を送って欲しいというオファーがあり、長州は自ら志願する形でメキシコへと旅立った。
UWAでは長州はエル・カネックを破りUWA世界ヘビー級王座を奪取、グラン浜田と組んでUWA世界タッグ王者となるなど二冠王に輝き、髪形も近所に散髪屋がなかったのと言葉が通じないということで億劫になり、長髪に伸ばしてイメージチェンジをした。結局UWA王座は帰国直前で手放したものの、海外でノビノビやれて心身ともにリフレッシュした長州は日本へと帰国した。
話は戻って10月8日の後楽園ホール大会、凱旋した長州に組まれたカードは猪木、藤波と組んでアブドーラ・ザ・ブッチャー、バッドニュース・アレン、S・D・ジョーンズとの6人タッグマッチで、猪木は11・4蔵前国技館大会ではブッチャーとのシングル戦が決まっていたこともあって前哨戦の意味合いが込められていたが、猪木は自分と手の合わないブッチャーとの対戦は乗り気でなかったのもあって、決められたカードを見てつまらないと考えていた。また長州も22日の広島県立体育館大会で藤波の保持するWWFインターヘビー級王座に挑戦することが決定していた。猪木は長州を呼び出すと「オマエは、藤波に対してどういう気持ちを持っているんだ。」「このままじゃ、メキシコから帰ってきてもずっと同じ、オマエはこのまま終わるぞ」と話しかけた。藤波はヘビー級に転向したジュニアヘビー級の時と同じようにMSGという大舞台でWWFインターヘビー級王座を奪取し、ヘビー級としても光り輝こうとしていた。猪木もかつて日本プロレス時代に常にNo2扱いされ、ジャイアント馬場の背中を見続けてきてきたというものがあったのかもしれない。長州もこのまま藤波の背中を見続けているのか…猪木の謎かけをきっかけに長州は開き直る決心をする。
メインの試合前に長州は田中秀和リングアナから藤波より先にコールを受けると、「どうしてオレが先なんだ!」と噛みつき、藤波も長州に視線を送りつつも戸惑いの表情を浮かべ、先発を巡っても猪木と藤波が一方的にコーナーに下がると長州は"なぜオレが先に出るんだ!"と藤波に噛みつき、藤波も"早く行け!"と命じるなど口論を始める。ラチがいかないと判断したのか、猪木が藤波に先発で出ろと命じ、藤波も仕方なく先発で出る。
試合中も長州がアレンを捕らえて藤波に交代しようとするが、開始前のイザコザを根に持ってか藤波が拒否する。猪木が長州の交代に応じるが、今度は藤波がアレンを再び捕らえて長州に交代しようとすると、藤波が長州にビンタを放ち、これで長州がブッチャー組に攻め込まれて捕まってしまう。
終盤には藤波がジョーンズを捕らえて長州に指示を出すが、長州が思うとおりに動かないとなると、焦れた藤波が長州に再びビンタを放ち、これに怒った長州が藤波の顔面にビンタで返し、試合を無視して仲間割れとなってしまう。それでも猪木と長州は試合を優先してブッチャーとアレンを排除した後で、藤波がジョーンズを回転エビ固めで3カウントを奪い勝利となるも、勝利をアピールする藤波に長州が何度もビンタを放ってからボディースラムで投げ、何度も蹴りつけて藤波をリングから追い出す。
そしてエプロン越しで長州と藤波が口論を始め、ミスター高橋レフェリーが止めに入るが、長州は高橋レフェリーを殴ると、これに怒った藤波が襲い掛かり遂に乱闘を始め、セコンドの荒川真や永源遥が止めに入る。長州はこの時「なんで(入場の際に)オレ(長州)がオマエ(藤波)の前を歩かなきゃいけないんだ、なんでオレがオマエ(藤波)の前にコールされなきゃいけないんだ」と咬みつくが、これが「藤波、俺はお前のかませ犬じゃない」と叫んだことになっていた。猪木が藤波にビンタを放って"冷静になれ"と宥めるが、納得のいかない藤波は長州に再び襲い掛かって乱闘となり、若手らも入って二人を分け、大荒れのままで中継が終了した。
バックステージに下がると、猪木は「なんて試合をしたんだ!」と藤波と長州を殴って制裁した。確かに長州をけしかけたのは猪木だったが、試合を壊したことで立場上二人を制裁せざる得なかった。猪木も長州が試合後ならまだしも、試合中に行動を起こすとは思っても見なかったのではないだろうか、藤波は猪木は謝罪したものの、長州は控室から飛び出してそのまま姿を消した。長州はこのとき"干される"覚悟をしていたという。
新日本は役員会を開き、新間氏が長州に対して処罰を求めた。このときの新日本は猪木、藤波、タイガーマスクという序列が出来上がっており、長州はこの3本柱を支える捨て駒に過ぎない、その捨て駒が序列を崩そうとすることはとんでもないことであり、業界の秩序を乱すものとして絶対に許されない、それが新間氏の考えだった。しかし猪木が「長州の気持ちはわかる」として処分は猪木預かりにした。この時の長州は上司から虐げられ、正当な評価を受けていないと不満を持つ社会人だけでなく、イジメに悩むファンから絶大な支持を受けようとしていたことから。猪木は"これは面白いものが出来るかもしれない"と感じ、長州の行動を認めたのかもしれない。
10月22日広島で藤波と長州はシングルで対戦、当初はWWFインター王座をかけられる予定だったが「両者興奮状態でタイトルマッチとして相応しくない」という理由でノンタイトルとなり、長州のセコンドには同じく凱旋帰国しながらも大きなインパクトを残せなかったが、長州の行動に感銘を受けた小林邦昭が着いた。
序盤は互いに出方を伺うも、時間が経過すると共に両者はエキサイトし始め、長州の足を固める藤波が突如ストンピング、ビンタを放つと、長州も呼応してビンタで返し、藤波を場外へ追いやり、エプロン越しの攻防で長州はコーナーに叩きつけ、前日の大会で流血していた藤波の額が割れて流血となってしまう。
藤波が足四の字から場外戦を仕掛けると、場外でのボディースラムを敢行、リングに戻るとキックを放つ長州にドラゴンスクリューから逆エビ固めをねらうが、阻止した長州はスリーパーで捕獲、逃れた藤波はドロップキックからブレーンバスターで投げるが、長州は捻りを加えたバックドロップで応戦し、元旦決戦以来出していなかったリキラリアットを炸裂させる。
再び場外戦となると長州は鉄柱攻撃、リングに戻ってロープ越しのブレーンバスターで攻勢も、ドロップキックで返した藤波はキーロックで捕獲、しかし長州は強引に持ち上げて後に叩きつけ、コーナーへ昇るも、下からのドロップキックで迎撃した場外へ落とした藤波は再度場外戦を仕掛け、二人はイスを奪い合って殴打し合い、そのまま客席へと雪崩れ込んでしまう。リングに戻るとイスを持ってリングに上がる長州に高橋レフェリーが止めると、藤波はドロップキックを放って高橋レフェリーごと吹き飛ばしてしまい、長州はイスで殴打してから首を絞めたところで試合終了、試合は収拾がつかないとして無効試合となったが、猪木まで入ってくる事態にまで発展した。
二人は11・4蔵前でWWFインターヘビー級王座をかけて再戦し、今度は長州が長らく出していなかったサソリ固めを繰り出して藤波をギブアップ寸前に追い込んだことで、大きなインパクトを残し、試合は藤波をフェンス外に出したということで長州が反則負けとなるも、長州は二つの試合で捻りを加えたバックドロップ、リキラリアット、サソリ固めも出したことで、今までの長州とは違うと印象付けることに成功した。
長州は「まあ、ワインに例えるなら、いい具合にポーンと弾けたってことだ。栓が抜けて。そのワインから良い香りがしたのか?あるいは美味しかったのか?どちらにしろ、飲んだ客が『ウワっ!」っていう反応したことだけが確かな。まあ、あの反応を見る限り、いいワインが飲めたんだと思うよ、今までの新日本の客が味わったことのワインを、あの試合で提供できたと思っている」と語ったが、確かにそれまでの新日本は猪木、藤波、タイガーと序列が出来て、その光景が当たり前になりつつあり、新間氏もその序列を崩す気はなかった。しかし長州が序列に割って入ったことで、今までの光景が一変しファンに大きなインパクトを与えた。長州の行動はまさしく新日本プロレスを変え、またプロレス界全体を変えるきっかけとなった。
長州は新間氏から「第3回MSGタッグリーグ戦」に参戦することを命じられるが、長州は敷かれたレールには乗らず、シリーズをボイコット、アメリカに渡りマサ斎藤と合流、1984年の「新春黄金シリーズ」には齋藤と共に帰国、そこにキラー・カーンも合流して、小林を加えた"革命軍"を結成、この"革命軍"が後に維新軍団となり、マット界のキャスティングボード的な存在となって大きなうねりを起こすきっかけっとなった。
(参考資料 田崎健太著「真説・長州力」 長州の咬ませ犬事件は新日本プロレスワールドでも視聴できます)
0コメント