昭和57年10月22日、広島県立体育館で行われた藤波辰己vs長州力の名勝負数え歌が始まった後で、もう一つの事件が起きていた。セミファイナルでNWA世界ジュニアヘビー級選手権(王者)タイガーマスクvs(挑戦者)レス・ソントンが行われることになっていたが、ソントンのウエートオーバーのためタイトル戦は中止、急遽ノンタイトルで行われることになった。タイガーが入場しトップロープに昇ってアピールしたところで、小林邦昭が乱入してタイガーを襲撃、タイガーに宣戦布告を果たした。
小林は1972年に旗揚げして間もない新日本プロレスに入門、1973年にデビューしたが、3年後には後に初代タイガーマスクとなる佐山聡が入門、佐山がデビュー8戦目で小林と対決し小林が首固めで勝利を収めた。だが先に海外遠征に出たのは佐山で、小林はデビューして7年目の1980年になってやっとメキシコに武者修行に出され、現地では佐山も合流してタッグを組むも、3ヵ月後には佐山はイギリスへ向かい、その後タイガーマスクに変身して1981年5月に再びメキシコへ遠征、小林はタッグながらもタイガーとも対戦した。
1982年にビザの関係でメキシコを離れた小林は不況で閉鎖寸前だったロスサンゼルスのNWAハリウッドレスリングに登場し、ティモシー・フラワーズを破ってNWAアメリカス・ヘビー級王座を奪取、アメリカス王座は凱旋直前でブラック・ゴードマンに敗れて明け渡したが、アメリカス王座はフレッド・ブラッシーやジョン・トロス、ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク、ミル・マスカラスなど大物レスラーが巻いたことがあるベルトであることから、堂々の実績を誇っての凱旋だった。凱旋初戦は10月8日の後楽園ホール大会で木戸修と組み、シルバー・ハリケーン、ジョニー・ロンドス組と対戦し、木戸やドン荒川に薦められて赤いパンタロンを着用した小林は修行中に編み出した技であるフィッシャーマンズスープレックスホールドでハリケーンを降したものの、フィッシャーマンズスープレックス自体がまだ認知された技でなかったのか、観客の反応も鈍かったこともあって、ファンに大きなインパクトを与えるまでには至らなかった。
自分の試合を終えた小林は控室を出てメインの試合を見ると、リングではアントニオ猪木と藤波辰己と組んでいた長州力が藤波と仲間割れとなり、藤波に噛み付いている長州の姿を見て大きな影響を受けた。小林も長州が藤波に咬みついたように、当時絶大な人気を誇っていたタイガーマスクに咬みついたことで大きなインパクトを残すことに成功、ここから長州と行動を共にすることになったが、長州と小林はキャリア的には小林が先輩ながらも、長州とはウマが合い、長州のメキシコ遠征の際にも、先に派遣されていた小林と行動を共にしていた。
小林の行動が認められる形で、10月26日の大阪府立体育館大会でタイガーとの一騎打ちが実現し、タイガーの保持するWWFジュニアヘビー級王座がかけられた。開始となると小林がロックアップでタイガーを押し込んだ際にエルボーを放ち、リストロックの攻防でもタイガーに喰らいつき、クルックヘッドシザースで捕獲して絞めあげる。
ヘッドスプリングでタイガーは脱出も、小林は執拗に絡みついてヘッドロック、ロープワークからの読み合いで小林は延髄斬りを浴びせ、腕を捕らえつつ再びクルックヘッドシザースで捕獲する。逃れたタイガーは小林の顔面にビンタから袈裟固め、キチンシンクからローリングソバットを狙うが、かわした小林が逆にローリングソバットを浴びせ、ローキックの連打からトラースキックの連打、逆片エビで捕獲してタイガーの動きを先読みしてリードを奪う。
タイガーはカンガルーキックで脱出すると、フライングヘッドシザースで捕獲、フロントネックチャンスリーからリバースフルネルソンで捕らえるも、逃れた小林はエルボーから一本足頭突き、ショルダースルーからスリーパー、首四の字で絞めあげる。
逃れたタイガーはエルボードロップからサマーソルトドロップ、三角絞めで捕らえるが、小林はサーフボードで切り返し、サイドキックからショルダーも、突進したところでタイガーはドロップキックも2発目は自爆してしまう。
小林はスピンキックもタイガーはバックドロップで応戦、ダイビングヘッドバットを命中させるも、ラウディングボディープレス狙いは小林が起きて場外へ突き飛ばすとプランチャを発射、リングに戻った小林はエプロンのタイガーを鉄柱に叩きつけ、大ダメージを負ったタイガーをコーナーに逆さ吊りにしてからストンピングを浴びせ、タイガーのマスクを破きにかかる。
ミスター高橋レフェリーが制止に入るが、小林が突き飛ばしたため反則負けとなるも、タイガーのマスクは半分破かれてしまい、若手はタオルで顔を被い隠した…自分もこの試合はテレビで視聴しており、タイガーのマスクが破かれたシーンは大きな衝撃を受けるも、実はこのシーンが瞬間視聴率では高視聴率をマークしたという。
小林は後年「あれは(マスク破き)は自分自身のプロデュースですよ、あれによって僕とタイガーの試合は点で終わらず、線として繋がって抗争に発展していきましたからね、ゴールデンタイムでの放送だったから、"ここでインパクトを残さなかったらもう駄目だろうな"と思ってました」「タイガーマスクに勝てるわけないですよ、あの動きに、タイガーマスクを抜こうとしたら、あれ以上動かないと、でも、それは出来ないんで、じゃあ日本全国のファンにインパクトを与えるには、どうしたらいいかってことですよね、覆面を破る時は、ただ紐を解くんでなくて、タイガーマスクの腕を極めて動けないようにしてから、思い切りバッと破いて、あそこで破れなかったら笑いものですね」と答えていたが、初代タイガーのライバルにはダイナマイト・キッド、ブラックタイガーがおり、タイガーのライバルとして認められるには大きなインパクトを残さなければならなかったが、考えたのはタイガーのマスクを破くことだったのだ。
11月4日で行われた蔵前国技館での再戦はタイガーの保持していたNWA世界ジュニア王座もかけられたが、この試合でもタイガーのマスクを破いたため反則負けとなり、タイガーのライバルとしてファンに認知されるも、その代わり生卵を投げられ、剃刀入りのファンレターも送られることもあった。しかし小林は「あれだけ憎まれたらプロレスラーとしては幸せですよ」と受け止めていた。
1983年8月にタイガーマスクが"引退"して新日本を去り、代わりにザ・コブラが誕生して小林が相手になったが、ファンはコブラではなく小林に声援を送り、中にはノボリまで立てたファンもいた。マスクを破いたがファンはしっかり小林をタイガーのライバルとして認めていたのだ。だがタイガーマスクを失った焦燥感は拭いきれず、長州に追随してジャパンプロレスに移籍して、全日本プロレスで2代目タイガーマスクとなっていた三沢光晴と対戦するも、佐山のような燃えられる試合は出来なかった。
小林は新日本にUターンしたが、反選手会同盟を結成した頃から大病を患い引退するも、1994年に再び佐山が初代タイガーマスクとして参戦するようになってからは限定ながらも復帰しタイガーと対戦、2011年5月7日に行われえたレジェンド・ザ・プロレスリングでは場外でタイガーのマスクの紐を鉄柱の金具に縛り付けてリングアウト勝ちを収めたことで、やっとタイガーに勝つことが出来た。
「街を歩いていると、"あのタイガーマスクとやっていた小林さんですか"と声をかけれたり。それだけのインパクトがタイガーマスクvs小林邦昭にあったということですよね、それは本当にレスラー冥利に尽きますよ」と語っていたが、タイガーマスクがいたからこそ小林邦昭というレスラーが世に出ることが出来た。まさしくタイガーマスクあっての小林邦昭だった。
(参考資料 Gスピリッツ ARCHVIES 「初代タイガーマスク」新日本プロレスワールド、タイガーマスクvs小林邦昭は新日本プロレスワールドで視聴できます)
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