1993年11月13日、横須賀市総合体育館にて『93年世界最強タッグ決定リーグ戦』が開幕した。
<出場チーム>
スタン・ハンセン&テッド・デビアス
三沢光晴&小橋健太
田上明&川田利明
スティーブ・ウイリアムス&ビック・ブーバー
ダニー・クロファット&ダグ・ファーナス
パトリオット&ジ・イーグル
ダニー・スパイビー&ジョニー・エース
トレイシー・スマザース&リチャード・スリンガー
この頃の世界タッグ王者はハンセン&デビアス組で、ハンセンとデビアスは同じザ・ファンクス門下だったが、ハンセンのパートナーだったブルーザー・ブロディが新日本プロレスに移籍したことで超獣コンビが解散,、ハンセンはデビアスを新パートナーに指名して「ビッグテキサンコンビ」を結成、テクニシャンであるデビアスにブロディの代わりが務められるかファンからも疑問視されていたが、ハンセンのパワーにデビアスのインサイドワークとテクニックが意外と噛み合って好タッグとなり、ジャンボ鶴田&天龍源一郎、長州力&谷津嘉章と互角に渡り合って、95年の最強タッグでは優勝、PWF世界タッグ王座奪取し、一度は鶴田&二代目タイガーマスク組に明け渡したが、デビアスがWWF(WWE)へ転出するまで2年に渡って保持してきた。
デビアスは1987年にWWFに転出してからは嫌味な金満キャラのミリオンダラー・マンに変身し、長きに渡ってヒールとして活躍してきたが、WWFを円満退団してから全日本に復帰、ハンセンとのビックテキサンコンビを復活させ、田上&川田組から世界タッグ王座を奪取していた。
この頃の全日本のタッグ戦線は三沢&小橋組の超世代軍、田上&川田の聖鬼軍、テリー・ゴーディ&ウイリアムスの殺人魚雷コンビがトップを占めており、ハンセンはスパイビーやエースと組んでいたが、スパイビーの衰えとエースの力不足もあって割って入ることが出来なかった。しかしコーディが体調不良で欠場したことで、殺人魚雷コンビが活動停止となり、外国人枠が空き家となっていたところでデビアスが全日本に復帰した。デビアスの全日本復帰はハンセンだけでなく全日本にとってもタイミングが良く、ミリオンダラーマンとして日本のファンにも知名度を高くしていたデビアスいたこともあって大きな期待を寄せられていた。
ハンセン&デビアス組は11月14日の後楽園大会の公式戦初戦でスマサーズ&スリンガー組に完勝して白星発進したが、翌日の戸田大会で特別参戦していたアブドーラ・ザ・ブッチャー、ジャイアント・キマラ組と対戦した際にデビアスが首を負傷、頚椎損傷で試合が出来ない状況となってしまう。デビアスは帰国を余儀なくされ、最強タッグ中にハンセンのパートナーが不在という緊急事態に全日本サイドは代役を探すも、ハンセンと組めるパートナーはなかなか見つからなかった。そこで考えたのは馬場がハンセンと組むことだった。
前年度の馬場は小橋と組んでエントリーしていたが、93年度は「最強タッグは卒業した」としてエントリーいなかったが、全日本の緊急事態にハンセンと組んで急遽出陣を決意、こうしてハンセン&馬場組が緊急エントリーとなり、これを受けてハンセン&デビアスvsスマサーズ&スリンガーの公式戦は白紙とされ、公式戦はゼロからのスタートとなった。
ハンセン&馬場組は11月17日の新潟大会でパトリオット&ジ・イーグル組と対戦、馬場の16文キックからのハンセンのウエスタンラリアットの波状攻撃である"ジャイアントコンビネーション"で完勝、ファンも馬場の緊急エントリーを大歓迎した。ハンセン&馬場は続いて11月22日岡山ではスパイビー&エース組、23日米子でカンナムエキスプレスをジャイアントコンビネーションで完勝して公式戦3連勝、たちまちリーグ戦の台風の目となっていった。
24日の大阪では田上&川田の聖鬼軍と対戦、自分もこの大会を観戦したが、グッズ売り場ではエントリーチームのサイン色紙が売り出されていたものの、一番人気はハンセン&馬場組でいかにこのチームが多いに話題を呼んでいたことを伺わせていた。
試合はハンセン&馬場組が序盤からリードも、勝負を狙ったジャイアントコンビネーションが阻止されると、一転して聖鬼軍ペースとなり、馬場が捕まって集中攻撃を浴びてしまう。しかし館内が馬場コール一色になると馬場は懸命に粘り、聖鬼軍も決め手に欠いたため30分時間切れ引き分けとなるも、馬場の粘りに館内から大いに拍手が送られた。
30日の札幌では三沢&小橋の超世代軍と対戦、三沢組も馬場を捕らえたがハンセンが要所でカットに入り、馬場もチョップの連打で奮戦、三沢に16文キックを決めたところで30分時間切れとなり、2戦連続で引き分け、12月1日愛知ではスマサーズ&スリンガーをジャイアントコンビネーションで破り勝利を収め、最終戦である3日の武道館出はウイリアムス&ブーバー組には馬場がブーバーに河津掛けを狙ったところでハンセンがウエスタンラリアットを浴びせるジャイアントコンビネーションの新バージョンを決めて勝利し、負けなしの12点で公式戦を終えるが、三沢&小橋が田上&川田組を破って13点で公式戦を終えて優勝、ハンセン&馬場組は1点差で涙を飲んだが、この年の最強タッグを多いに沸かせた。
当初はハンセン&馬場組は最強タッグのみの限定チームのはずがファンの大好評を受けて継続されることになり、3月5日の武道館では三沢&小橋組との再戦が決定したが、三沢&小橋組が保持していた世界タッグ王座はなぜかかけられなかった。そこで週刊プロレスの全日本プロレス番記者である市瀬英俊氏は「世界タッグ王座にならないんですか」と馬場に聞いた。市瀬氏も世界タッグ選手権になれば話題を呼び、観客動員にも繋がると考えていたが、普段温厚だった馬場は「馬鹿野郎!そんなことが出来るか!」と突然激怒してしまう。
結局ノンタイトルで行われた試合は30分を越える激闘の末、三沢がトップコーナーからのダイビングネックブリーカードロップで馬場から3カウントを奪い勝利、大会後に市瀬氏は編集長だったターザン山本氏と共にキャピタル東急で食事をしていた馬場を訪れ謝罪したが、馬場は「あれは、オレに対する侮辱でもあるんだぞ」と苦言を呈した。馬場がノンタイトルにした理由は天龍が抜けた後の全日本を必死で守ってくれた三沢たちに対する配慮で、自分がここで美味しい舞台に立ってしまえば三沢らが快く思うわけがないと考えていたからだった。
ハンセン&馬場組は94年の最強タッグにもエントリーしたが、ウイリアムス&エース組に敗れたのが尾を引き、最終戦を待たずに優勝戦線から脱落してしまうも、最終戦の武道館でのメインで行われた聖鬼軍との対戦では、脇腹を痛めていたハンセンに馬場は「ウエスタンラリアットは一発で決めなくていい、連発で決めろ」と指示を出すと、川田を捕らえたハンセン&馬場組はジャイアントコンビネーションを決め、田上が慌ててカットするも、馬場が田上にここ一番で出るランニングネックブリーカーを炸裂させる好アシストを披露してから、ハンセンが川田にウエスタンラリアットを炸裂させて3カウントを奪って聖鬼軍の優勝を阻み、セミで試合を終えていた三沢&小橋組が連覇したが、この時ばかりは優勝しなかったハンセン&馬場が武道館大会の主役を奪ったものの、この年の最強タッグを最後にハンセン&馬場はコンビを解消した。二人のコンビを解消させたのも優勝した三沢らへの配慮だったのかもしれない。
95年度は馬場は本田多聞、ハンセンはボビー・ダンカンJr.と組んで参戦したが、馬場は95年度を最後に最強タッグから勇退、死去するまでエントリーすることはなかった。ハンセンは大森隆男、ゲーリー・オブライト、ベイダー、田上とパートナーを代えて99年まで参戦、98年と99年には優勝決定戦にまで進出したが、2年連続で小橋&秋山組に敗れ優勝は出来ず、2000年に両膝を負傷したハンセンは引退を表明した。 最強タッグにはハーリー・レイス&ニック・ボックウインクル組などドリームタッグも売りだったが、ハンセン&馬場も90年代最後のドリームタッグだった。
(参考資料 市瀬英俊「痛みの対価」)
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