新日本だけでなくテレビ朝日を喜ばせた大ヒール…タイガー・ジェット・シン

1973年5月4日、新日本プロレス「ゴールデンファイトシリーズ」開幕戦が行われれた川崎市体育館大会で山本小鉄がスティーブ・リッカードと対戦したが、客席に座っていたターバンを巻いた男が突然リングに上がり、山本を襲撃、コブラクローで絞め落とす暴挙を働いた。暴挙を働いた男の名はタイガー・ジェット・シン、プロレスラーだがまだ日本では無名の選手だった。

シンは1964年にシンガポールでデビューとされているが、カナダに渡った後の経歴は明らかになっていない、ジャイアント馬場の師匠であるフレッド・アトキンスの指導を受け1965年にカナダ・トロントで再デビューを果たし、猪木の東京プロレス時代の好敵手であるジョニー・バレンタインを降してUSヘビー級王座を奪取するなど、トロントでメインイベンターの地位を獲得、またデトロイトでもアメリカ遠征中だった後にザ・グレート・カブキとなる高千穂明久とも対戦した。 

 シンが初来日する直前の新日本プロレスは、1973年4月金曜8時から「ワールドプロレスリング」が放送を開始するも、大物外国人選手はNWAの会員となっていたジャイアント馬場の全日本プロレス、AWAと提携していた国際プロレスに独占されたことで呼べず、外国人ルートは猪木の師匠であるカール・ゴッチや、猪木とも親交があったロスサンゼルスのマイク・ラベールに頼っていたが、大物とは程遠く知名度がイマイチだったため目玉になる選手が不在、まだこの時点ではジョニー・パワーズのNWFとも提携を結んでいなかった。

 シンを紹介したのはワールドプロレスリングの解説者を務めていた遠藤幸吉の知人の貿易商で、ナイフを咥えているシンの写真入りプロフィールを見た猪木は、「ナイフじゃなくどうせならサーベルでも咥えさせてみたらどうだ」とアイデアを出したことでシンの参戦を決めるも、当初は7月シリーズに参戦する予定が、渉外担当の不手際で、間違えて5月に来日してしまてしまい。新日本は「手違いとはいえ、せっかく来日したのだから日本のプロレスを生で見てもらおう」という配慮で試合を観戦させたが、シンが突然リングに上がって山本をKOするハプニングを起こしてしまったのだ。

 この模様を生中継していたワープロスタッフも大混乱となり、抗議の電話も含めて対応に苦慮するも、この反響を見た猪木は「シンは目玉外国人選手になる」と感じ、渉外担当にシンの業務用ビザを取得するように命じ、シンを香港に向かわせ業務用ビザを取得、すぐ日本に戻り、新日本からサーベルが手渡されたことで、”大ヒール”タイガー・ジェット・シンが誕生したが、猪木はすぐ参戦させようとしなかった。

 すぐシリーズに合流したシンは5日の福岡大会にも現れ、オーストラリア遠征時代に知り合ったリッカードのセコンドにつき、リングサイドをウロウロしてリッカードとタッグで対戦する猪木を牽制、川崎大会のように乱入はしなかったが、6日の大分大会でも再びリッカードのセコンドについたシンは猪木のパートナーだった木戸修をサーベルで襲撃し木戸をKO、リッカードにカバーさせて勝利をアシストする。7日の小倉大会で猪木はリッカードと対戦するも、この日もセコンドについたシンは猪木との対戦を迫り、猪木は「受けて立ってやる!明日、やってやろうじゃないか!」と受諾して背中を見せた瞬間、シンが猪木を襲撃、サーベルで攻撃して猪木を流血に追い込んだ。

 こうやって晴れてシリーズに参戦したシンだったが、8日の熊本での相手は猪木ではなく、シンの実力を見定めるための偵察役として柴田勝久が刺客として差し向けるも、肩透かしを食らったシンは怒り試合前から柴田を徹底的に痛めつけてコブラクローで勝利、9日の長崎でも木戸が仕留められてしまう。おまけに2大会もシン見たさに超満員となり、猪木のストーカーと化したことでマスコミからも注目を集めるようになった。

 タッグでも坂口、山本を破ったシンは25日の岐阜市民センター大会で猪木とのシングルマッチに漕ぎつけ、試合は3本勝負で行われたが1-1のイーブンの後の3本目で猪木が逆上してシンのサーベルを奪いメッタ打ちにし、制止に入ったレフェリーをも殴打したため反則負けとなり、反則裁定ながらも猪木に初シングルで猪木に勝ったことでトップ外国人選手にまで登り詰めていくが、新日本やテレビ朝日にもシンの狂乱ファイトに対してクレームが殺到する。だがワープロスタッフは「苦情の電話があった時は、視聴率がいい証」として気に留めなかった。現にワールドプロレスリングはシンが登場することで高視聴率をマークするようになり、シンはまさしく新日本だけでなくテレビ朝日も大喜びさせていく存在となっていった。

 そのシンの凶行がエスカレートする事態が起きる。シンは10月27日から開幕する「闘魂シリーズ第二弾」に参戦するも、11月5日に新宿伊勢丹前で猪木が夫人だった倍賞美津子と一緒にショッピングをしているところで、シンがジャック・ルージョー、ビル・ホワイトと共に現れると、猪木を襲撃、猪木はガードレールに叩きつけられ、額を割って大流血となってしまう。猪木も殴り返してシンに裂傷を負わせたが、警察が駆けつけ大騒ぎとなり、スポーツ新聞やワイドショーにも大体的に報道されてしまう。 

 しかし猪木は被害届を出さずにリング内でケリをつけることを望んだ、一部では猪木によるヤラセという声もあるが、事件当時はマスコミも誰もおらず、事件を映した写真も一枚もなかったことで、かえってリアルさを増していったのも事実だった。

 この事件をきっかけにシンの狂乱ファイトを見たさに観客が増え、ワールドプロレスリングの視聴率もうなぎ上りとなるも、流血試合に対してクレームも多く、テレビ局ではラチがいかないと思ったのか、警視庁に投書する人間もおり、投書を聞き入れた警視庁も日本民間放送連盟に流血試合の自粛を申し入れる。

 さすがの猪木や新日本も、この声を聞く耳を持たざる得ず、11月30日福山大会でシンとランバージャックデスマッチで対戦しバックドロップで降したことでシンを日本から追放処分としたが、シンは猪木が保持するNWF世界ヘビー級王座を管理しているNWFを動かし、NWFからの推薦選手という名目で1974年5月から開幕する「ゴールデンファイトシリーズ」に参戦、おそらくシンに入れ知恵したのは新日本であることは間違いないと思う。この頃にはNWFだけでなく、WWWF(WWE)とも提携を開始しアンドレ・ザ・ジャイアントやジョニー・パワーズなどが来日するようになったが、トップクラスの外国人選手はまだまだ駒不足で、またシンも切り捨てるのには惜しい存在であったことから、NWFの名目を借りて、伊勢丹事件から半年が経過してほとぼりが醒めた頃を見計らって参戦させたと見ていいだろう。


 猪木の保持するNWF王座をかけたシンとの2連戦の第1Rは6月20日の蔵前国技館で行われ、3本勝負の1本目は猪木が卍固めで先取も、2本目になるとシンが猪木の顔面めがけて火炎を浴びせ、左目に直撃した猪木は負傷、2本目はシンの反則負けとなり、2-0で猪木が勝利も、左目を痛めた猪木は翌日の大会を大事を取って欠場、この事件で二人の遺恨はますますエスカレートする。

 6月26日に大阪府立体育会館で第2Rが行われ、猪木からゴング前に奇襲をかけるも、場外戦となるとシンのペースとなり、シンは猪木の左目を攻めつつ凶器攻撃で徹底的に痛めつける。1本目は両者リングアウトとなり、決勝ラウンドの3本目でショルダータックルで反撃した猪木はイスでシンを殴打し、シンの右腕を掴んで鉄柱に何度もぶつけてショルダーアームブリーカーを連発、そこでシンの右腕を見た山本が「シンの右腕がおかしい」とミスター高橋レフェリーに申告するも、完全にキレた猪木は構わずシンの右腕を徹底的に攻撃するが、山本が猪木を必死で制止、シンも抵抗しなくなったため、試合はストップ、当時は猪木がシンの腕を折ったとされていたが、腕の亜脱臼だったという。

 バックステージでは猪木は「とうとうオレにここまでやらせやがった。カーッとなって頭に血がのぼってしまった。オレだって生身の人間だ。レスラー猪木ではなく、人間猪木になっちゃたよ。お客さんはケンカが見られると喜んでいるようだったが」とコメント、勝つには勝ったものの相手を負傷させたことで後味の悪さを残してしまい、不本意な結果に満足をしていなかったが、ファンは猪木の怖さを充分に見せつけたことで、後年語りづかれる試合となった。

猪木vsシンの戦いはこの後も続くも、1975年3月13日の広島大会で猪木はシンにフォール負けを喫してNWF王座を明け渡し、猪木は3月20日の蔵前、5月19日にはシンの地元であるカナダまで追いかけてシンに挑戦したが王座奪還ならず、ラストチャンスとなった6月26日の蔵前では1-1のイーブンとなって、決勝ラウンドの3本目では猪木がバックドロップで3カウントを奪い王座を奪還、試合後もシンは潔く敗戦を認めて猪木と握手をかわし健闘を称え合った。それでもシンは猪木を付け狙ったが、スタン・ハンセンが新日本に初来日を果たすと、最初こそはシンが上にポジション的に上に立っていたものの、たちまち抜き去られ、猪木のライバルの座はハンセンに取って代わられるようになり、猪木とシンは様々な試合形式で対戦したが、腕折り事件のようなインパクトを残すことが出来なかった。

昭和56年のMSGシリーズでは優勝戦進出者決定戦という形で猪木vsシンが行われるも、シンが急所打ちで反則負けとなるも、この試合を最後にシンは全日本プロレスへと移籍、猪木との抗争に終止符を打ったが、皮肉にもハンセンもしばらくして全日本へ移籍、ハンセンがジャイアント馬場と好勝負を繰り広げたに対し、シンは新日本時代のようなインパクトを残すことは出来なかった。シンが全日本で思うように活躍できなかったのは、シン自身がピークが過ぎただけでなくハンセンの影響も大きかったのかもしれない。

(参考資料 日本プロレス事件史 Vol.2 Vol.24、アントニオ猪木vsタイガー・ジェット・シンは新日本プロレスワールドにて視聴できます)