力道山死去というバブル崩壊、そして最後に残ったのは「プロレス」だった

1963年12月8日午後10時30分、東京・赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で、力道山が暴力団住吉一家傘下の大日本興業構成員であった村田勝志と、足を踏んだ踏まないで口論になった際に、村田が所持していた登山用ナイフで刺されるという事件が起きた。

 

 1950年に大相撲を廃業した力道山は翌年にプロレスラーに転向、米国武者修行を経て日本に帰国した力道山は力道山は日本プロレス協会を設立、シャープ兄弟と対戦したことで、瞬く間に国民的大スターとなり、一躍人気者になった。、プロレス界だけでなく実業界にも進出し、高級アパートやナイトクラブ経営や、そして常設会場であるリキスポーツパレスをボクシングジム設立など事業も手広く手掛けていた。また力道山の後見人で日本プロレスコミッションの会長で自民党副総裁・大野伴睦の薦めで田中敬子さんと結婚、順風満帆な人生を送っているかに見えた。

 しかし死去の前年である1962年、試合中に右胸鎖関節を亜脱臼するアクシデントに見舞われてしまう。力道山抜きでは興行が成り立たないため、2日間欠場するだけで復帰するも、満足に治療もしないままの復帰だったこともあって、必殺技である空手チョップの威力も落ち、必殺技になりえなくなってしまい。この負傷をきっかけに体力を低下させ、スタミナも落ち、強い力道山から相手の攻撃に耐える力道山の姿が目立つようになり、レスラーとして下り坂に差し掛かろうとしていた。また事件直前にはゴルフでコースをまわっている最中で内臓疾患で倒れていたという。力道山は必殺技を空手チョップからルー・テーズを見て盗んだといわれるバックドロップに変え、スピード感を持たせるためにリングの幅を狭め、興奮剤を飲んでテンションを高めて試合に臨み体力の衰えをカバーしていた。

 プライベートでは飲酒でのトラブルでケンカ沙汰になることも多く、大野伴睦から禁酒を言い渡されてからは飲酒は控えていたが、事件当日は大相撲のハワイ・アメリカ巡業の打ち合わせを行っており、古巣の相撲協会から頭を下げて協力を求められたことで上機嫌となっており、この日ばかりは禁を破って飲酒してしまい泥酔状態だった。そこで村田となり刺されてしまった。力道山はすぐそばの山王病院で応急処置を施してから自宅があるリキアパートに戻ったものの、力道山の苦しそうな表情を見た敬子夫人が病院に戻ることを薦め、病院に戻った力道山はそのまま手術となり、成功したものの、即入院となった。経過も良好で順調に回復が進んでいたものの、自分の身体を過信したのか、食事制限がかけられているのにもかかわらず、敬子夫人の目を盗んでは寿司やウイスキーを付き人に買いに行かせ、飲食していたという、それが影響してか容態は急変し、急性の腸閉塞を起こしているため緊急の再手術を行ったが、事件から1週間後の15日、午後9時50分ごろに力道山はで穿孔(せんこう)性化膿性腹膜炎死亡した。39歳だった。


 16日に通夜、20日に葬儀が行われ、政界、財界、芸能界から著名人が弔問に訪れ、英雄である力道山の死を偲んだが、日本プロレス界を支えてきた力道山の死は大きな衝撃を与え、力道山が遺した日本プロレス協会だけでなく手がけてきた事業にも大きな影響を与えた。そして力道山の側近達は力道山がいなくなったことで真っ先に駄目になるのはプロレスだろうと考え、日本プロレスから事業部門を管理しているリキエンタープライズへ移る人間が続出する。しかし沈み行く船はプロレスではなくリキエンタープライズの方で、力道山の手がけていた事業は全て多額の債務を抱えており、常設会場だったリキスポーツパレスも金を借りるために担保として押さえられていたのだ。結局抱えていた事業はほとんど清算され、リキスポーツパレスも担保物件として他人の手に渡ってしまい、力道山の個人遺産のほとんど相続税として国に押さえられてしまった。エンタープライズに移った人の中には海外出張から戻ると、上司が使途不明金の処理を押し付けられ、そのまま夜逃げされてしまった人もいたという。

 力道山が遺産であるプロレスは、力道山が亡くなっても人気が衰えず、唯一の黒字だった。社長は未亡人となっていた敬子夫人が就任していたが、実質上は豊登、遠藤幸吉、芳の里、吉村道明の合議制によって運営されていたのもあって、お飾りに過ぎなかった。だがこのままでは力道山が残した莫大な負債まで抱えることになると考えた4人は「日本プロレスリング興業株式会社」から独立し、「日本プロ・レスリング興業株式会社」を設立、力道山家と日本プロレスを切り離した。4人からしてみれば力道山に対する裏切る行為なのかもしれないが、多額な負債のことを考えると仕方のない措置だったのかもしれない。

 力道山の死という波乱はこれで終わったかに見えたが、これが本当の意味での始まりだった。力道山という絶対的首領がいなくなったことで、力道山が遺したプロレスは枝分かれしていく、1964年にアメリカで大スターとなっていたジャイアント馬場が凱旋帰国を果たし、日本でもトップスターとなって日本プロレス界を牽引する存在となっていく、ところが公金を横領したとして日本プロレスを追放された豊登は凱旋直前だったアントニオ猪木を抱きこんで東京プロレスを旗揚げすれば、日本プロレスの首脳陣と対立した吉原功氏も一部選手を引きつれ国際プロレスを旗揚げ、力道山によって一つにまとめられていた日本のプロレスは分かていった。東京プロレスは崩壊し猪木は一旦日本プロレスへ戻ったものの、内紛によって日本プロレスを追われた猪木は新日本プロレスを旗揚げ、馬場も全日本プロレスを旗揚げし、2大スターを失った日本プロレスは1973年に崩壊した。しかし力道山が遺したプロレスは様々な形を変えつつも枝分かれしていき、力道山が亡くなってから55年経過しても残り現在に至り、またリキエンタープライズも息子である百田光雄が看板だけを引き継ぎ、力道山に関するPRや試合のフィルムおよび写真の管理などの業務を中心として現在も残っている。

(参考資料 GスピリッツVol.31「日本プロレス」 日本プロレス事件史Vol.3「年末年始の波乱」)

伊賀プロレス通信24時

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