1990年10月25日、UWF大阪城ホール大会のメインイベントで前田日明vs船木誠勝が対戦、両者は激戦の末、前田が勝利を収めたが、試合後のバックステージで「船木のような選手を、リング外でゴチャゴチャかき回したくない、オレにしてもな、高田にしても、山ちゃん(山崎一夫)にしても、リングに専念できる環境だったら、別のものになった。そういった意味で若い選手を守っていきたい。妨害やちょっかいを出すものは、容赦せず叩き潰す、たとえそれが外の人間であっても、中の人間であっても」と発言、神社長は首脳陣批判と判断して前田に対して5ヶ月の出場停止処分を科したが、前田の出場停止は役員会議を通さず神社長の独断で決められたもので、他の役員らも事後承諾で後になって知らされたものだった。
事のきっかけは新生UWFが旗揚げして間もない1988年8月13日の有明コロシアム大会での試合後に、前田が師匠である田中正悟から吹き込まれて「会社の帳簿を見せて欲しい」と神社長に訴えてからだった。前田と神社長は第1次UWFからの仲で、新日本提携時には社長を任せるなど絶大なる信頼を寄せ、新生UWFになっても社長を任せていた。神氏は帳簿を見せないことに前田は疑問を抱き、神社長らが不正を働いていると疑いはじめ、また前田の知らないところで神社長が前田より高い給料を取り、UWFのスポンサーであったメガネスーパーが旗揚げしたSWSとの業務提携話が浮上、藤原喜明を貸し出そうとしたことがわかると前田は怒り、フロントと選手の間に亀裂が生じ、前田がフロント批判をマスコミに向けてアピールしたことで、亀裂が表面化して修復不可能の状態にまでなってしまっていた。神氏がなかなか帳簿を見せなかったのはフロントは少数でまかなっていたため多忙で、帳簿まで眼に行き届かなかったからだったが、神氏は社長でありながら一介の選手である前田から呼び捨てにされるなど、前田に対して面白くない感情を持っていたのも事実だった。前田に対する独断での出場停止は神氏の私情も入り混じっていたのかもしれない、大阪城ホール大会もそういう状況の中で行われたもので、この大会で解散するのではと思われていた。自分も観戦しており、前田と船木が内紛を忘れさせる激闘を繰り広げたことで大丈夫だと思っていたが、バックステージでの発言が新聞に出たことで、あの激闘の余韻は完全に消し去られてしまった。
神社長は藤原喜明に前田に代わって選手らの取りまとめを依頼、12月1日松本大会のカードを決める編成会議を選手らを交えて行われたが、会議には藤原も出席しないどころか高田延彦や山崎一夫も出席しなかった。藤原は面倒くさいことに関わるのを嫌ったため出席しなかったが、高田は神社長が自身に対して横柄な態度を取ったことで怒り亀裂が生じており、「松本大会に参戦すれば、神社長が独断で決めた前田さんの処分を自分が認める。あるいは世間一般に認めることになる」と感じボイコットの姿勢を見せ、山崎も同調する。だが神社長は「ボイコットすれば年俸の4倍の違約金を支払うことになるでしょう」と強気の姿勢を見せる。実は神社長は自分の意のままに動かせない前田、高田、山崎を追放して自分らの意のままに動く船木、鈴木みのるをエースにすえようと考えていたのだ。また選手間でも1989年5月に船木、鈴木、藤原が移籍してから若手選手と前田の間で亀裂が生じ始めており、前田だけでなく高田や山崎も道場すら顔を出さなくなっていたが、実は前田寄りとされていた高田も事務所に来ても前田とわざとニアミスし事務所を後にするなど、少しずつ距離を取り始めようとしていた。
神社長からプッシュされていた船木だけでなく鈴木、宮戸も神社長のやり方に疑問を抱き、三人で相談すると「前田さんが間違っていないなら出場しないのはおかしい、だったら"これが選手の気持ちです”と全員で前田さんを呼べばいい」と意見が一致、高田に相談して賛成し、4人で前田に会って松本に来て欲しいと要請、前田も快諾する。バラバラになりかけていた選手達は神社長への不満や疑問で利害が一致して、この時ばかりは一枚岩となっていた。
メインで船木がウェイン・シャムロックを降した後で、船木が「前田さん上がってください!」とアピールすると、出場停止になっていたはずの前田が現れ、他の選手らもリングに上がり、姿を見せようとしなかった藤原も高田を呼び出すと、藤原も仕方なくリングに上がって手をつなぎ一致団結をアピールする。この光景を見た神社長らは姿を消してUWFから撤退したが、それは束の間の団結に過ぎなかった。
12月7日に神社長らはUWFの全選手の解雇を発表して業界からの撤退を表明すると、選手らは新会社を設立、WOWOWでのレギュラー放送も決まって再出発するかと思われていたが、前田の自宅マンションで行われた全体会議で選手らの思惑の違いが表面化する。前田は選手一人一人に自分に信任するかと迫っていたが、この信任に関しては前田が事前に高田と山崎に根回しするように頼み、選手全体に根回しが出来ていると思っていた。ところが宮戸が"一致団結の根回ししたのは自分だから当然発言力があるはず”と思いもあり、前田の恫喝するような物言いに意を唱えたことから、前田がそれを自分に対する反発と受け止めてしまい口論に発展、ついには宮戸が自分らがキャリアを積んできたにも関わらず、今まで新弟子扱いする前田に対する不満をぶちまけてしまったことで、前田も選手らに対して解散を言い放ってしまうが、前田は「(みんなの目を覚ますために冷や水をかけた」としてショック療法で、自分に信任させようとしていしていて敢えて解散を口にしたに過ぎず、高田もそう解釈していた。実は全体会議には藤原や中野龍雄は参加しておらず、藤原は一致団結の後からメガネスーパーから誘いを受けており「船木と鈴木も誘って欲しい」と指示されていたが、藤原は交渉事を嫌ってか返事を保留にしており。中野も宮戸が前田に対して不満を抱いていることがわかっていたことから会議が決裂すると見越して出席しないなど、既に足並みが乱れ始めていたのだ。
前田の解散発言を受けて、選手らはそれぞれの思惑で動き始め、宮戸は安生らと共に船木を中心とした新団体設立へと動き出す。ところが船木は前田に見捨てられたと感じて鈴木と共に藤原に今後のことを相談、藤原はメガネスーパーが欲していた二人から転がり込んできたことから、メガネスーパーからの話に乗ることを決意、新団体設立へと動く。宮戸らの誘いを受けた船木は藤原の新団体に宮戸らを誘おうとしたが、スポンサーはつけたくなかった宮戸が断り、宮戸は代わりに高田をエースとした団体へと設立に動き、高田にエースになることを依頼、高田も"安生や宮戸らの面倒を自分が見るしかない”と考えただけでなく、以前から"いくら前田に勝ったとしても自分がその上にいけるわけではない”という葛藤も抱えていたことから宮戸の申し入れを受ける。前田の解散発言は自分に信任させる目的で言い放ったつもりが、結果的に分裂への引き金を引く結果となり、事の重大さに気づいた前田はせめて船木だけでも引きとめようとして自宅へ訪れたが、船木は不在だったが在宅しても話し合いには応じるつもりはなかった。こうして一致団結とされていたUWFは藤原率いる「プロフェッショナルレスリング藤原組」、高田率いる「UWFインターナショナル」と分裂し、前田は一人孤立、松本大会で一枚岩となっていたUWFの選手達だったが、松本大会を終えた時点で一枚岩は崩壊していたのだ。
今でも思うことだが前田にとってのUWFは仲間達の集まりで、前田はその仲間達を守ろうとしていた。だがその仲間達の思惑までは前田は気づくことが出来なかった。一致団結は前田自身が仲間達は神社長より、自分を選んでくれたことで前田も喜んだが、それが驕りにつながってしまったのではないだろうか・・・前田の責任感の強さは確かだったが、もう少し他の選手に対して配慮があれば、一致団結は継続したものになっていたのかもしれない。
孤立した前田は落胆し、一時は自宅に引き篭もってしまったが、周囲の励ましを受けて「リングス」を旗揚げ、こうしてUWFは三つに分かれるも、92年に藤原組が格闘志向の強い船木とメガネスーパーの意向を重んじる藤原が対立し分裂、船木はパンクラスを旗揚げする。メガネスーパーも撤退したことで藤原組はUスタイルを薄めて従来のプロレスへと転じるも、現在では所属選手も全員いなくなり、藤原の個人事務所となって現在でも残っている。しばらくして立ち技格闘技であるK-1が大人気を博すようになると、続けてアメリカでUFCの存在が注目されたことで、格闘技ブームが起き、UWF各団体にも影響を及ぼし始める。UWFインターは"最強”を掲げ、高田をエースとしたことで最盛期を迎えたが、1994年にMMA最強としたヒクソン・グレイシーに対戦表明して、安生を刺客としてアメリカへ差し向けるが惨敗、1995年に新日本と全面対抗戦では高田が武藤敬司に敗れてしまい、団体として大きくイメージを低下させたUWFインターは1996年に解散、リングスは1999年に前田が引退したことをきっかけに興行が苦戦、UスタイルからMMA路線を意識した路線に転化するも、PRIDEによって次々と選手を引き抜かれ、WOWOWもリングスに見切りをつけたため、リングスは看板を残したまま活動休止を余儀なくされた。
業界から去った神氏は前田が引退試合を行う99年2月21日、来場した鈴木元専務を通じて前田に詫び状を出し、前田も過去のことして水に流したが、現在でも前田と神氏が再会したという話はない。また神氏もUWF関連の取材のオファーがあったが、二度と語ることはないとして全て断っているという。
最後に自分にとってUWFは何だったのか、今思うと馬場、猪木時代が続くことで、時代を変えて欲しいと誰もが思っていた一つのムーブメントだった、誰もがUWFに時代を変えて欲しいと願っていたのではないだろうか・・・
(参考資料 日本プロレス事件史Vol.3「年末年始の波乱」 宝島社「証言UWF」)
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