2004年10月9日、新日本プロレスは台風22号の影響で暴風雨の中で両国国技館大会を開催したが、リングの中でもファンが望まない大嵐が吹き荒れようとは誰も予想していなかった。
当時の新日本は「暗黒期」と言われた時代、前年まで現場監督として現場を取り仕切っていた蝶野正洋が現場監督を辞任、一介の選手へと戻り、現場がオーナーだったアントニオ猪木の肝入りで執行役員だった上井文彦氏が取り仕切っていた。
上井氏は2002年からマッチメークに携わり、2002年10月にパラオのイノキアイランドで猪木と二人きりになった際に腹を割って話し合ってから猪木から絶大なる信頼を受けたことがきっかけとなって猪木や猪木事務所との調整役も担なっていた。上井氏は猪木から「現在の新日本は生ぬるい、外敵と戦わせて壊したい」という意志を汲み、K-1やPRIDEと交流しつつ、全日本やNOAH、天龍源一郎や佐々木健介、高山善廣、鈴木みのるなどフリー勢を投入するなどして猪木の考える"格闘路線"を推進しつつ、純プロレス路線も推進するなど2本立てで路線を敷き、新日本本隊に刺激を与えて活性化を図っていた。しかし猪木の後ろ盾を得た上井氏の敷く外敵重視路線には内部から不満が噴出し始め、中には"土下座外交"と皮肉られた。その声を聴いた上井氏は一時は退社まで考えて、社長だった藤波辰爾に辞表を提出するも、天龍源一郎から「上井さん、カッコイイ辞め方なんてしたらダメだよ、オレの経験から言わせたら、その後の人生で3倍苦労するよ」と励まされ、辞職を撤回、そのままマッチメーカーを続投していた。
だがすぐに6月に猪木がオーナーとして強権を発動、社長だった藤波が失脚して副会長に棚上げされ、猪木事務所の経済コンサルタントである草間政一氏が社長に就任する。猪木の狙いはドンブリ勘定だった新日本の改善させることだったが、もう一つの狙いは改善させた上で新日本から金を引き出すことだった。猪木も経営を草間氏、現場を上井氏に任せることで一挙両得を狙い、新日本は再浮上を図れると考えていたのかもしれない。ところが草間氏は上井氏の外敵投入は経費を圧迫させるだけだと考え、純血路線に転換するために上井氏にフリー勢参戦を見直すように要求したことで現場に口を出してしまう。外敵投入は猪木が認可していたこともあって上井氏は猛反発、経営改善も外敵投入も猪木の認可を受けてのことだったが、猪木の"認可"が草間、上井両氏の対立の要因となってしまったのだ。
上井氏は10・9両国のカードを発表するがIWGPヘビー級王者である藤田和之の挑戦者にフリーである佐々木健介を据えたことで、今度は現場の選手達が猛反発する。この年のG1 CLIMAXを優勝を果たした天山広吉が優勝を果たしており、天山の挑戦が最優先させるはずだった。しかし天山は昨年11月3日に高山善廣を破りIWGP王者を奪取したが、1ヶ月後の12月9日に中邑真輔に敗れ王座から転落し短期政権で終わっていることから安定感がない。そういった配慮もあって天山だけでなく所属選手達を奮起させるために敢えて挑戦を先送りにしたのだが、外敵同士の選手権をメインにすることで、天山を始め所属選手が納得いかず上井氏に抗議するも、猪木の認可を受けていた上井氏は「天山の挑戦はありえない」と一蹴する。それでも納得いかない天山や永田は「俺たちがマッチメークする」と言い出してしまっていた。新日本はNOAHと交流しており、NOAHは選手らの自己主張を尊重する選手主導のマッチメークしていたことから、新日本の選手らもNOAHから影響を受けたことで「フロント主導ではなく、選手主導型にして、選手の意志を尊重するマッチメークにすべきだ」と考えていたのかもしれない。
また上井氏はもう一つのサプライズを用意していた、それは長州力の新日本復帰だった。長州は2002年5月に猪木を痛烈批判して新日本を去り、2003年3月にWJプロレスを旗揚げしたが様々な不手際が重なって活動停止に追いやられていた。長州の起用も上井氏の考えたことで猪木の了解を取り付けた上のことだったが、長州の復帰には快く思わない人間が多かったことから、長州の復帰は猪木そして猪木の側近であり長州とも親しい関係だった倍賞鉄夫氏以外には話さず、トップシークレットとしたのだ。
大会当日、休憩明けには長州が現れる段取りになっていたが、上井氏は登場直前で永田にだけは長州が現れることを明かし永田も驚いてしまう。上井氏もマッチメークのことでは永田とは対立していたが、このビックサプライズに対応してくれるのは永田しかないと信頼を置いた上でのことだった。そして長州が石井智宏を伴い、リングに上がると館内はどよめき、永田もリングに上がる。長州は永田に「永田、よく上がってきたな。天下を取り損ねた男がよく上がってきたな、中に残った人間が信頼されずに外へ出ていった人間がど真ん中に来た。わかるか?てめえらが罪を背負うのか!次にど真ん中に立つよきはオレのパワーホール全開になる!」と挑発すると、館内は長州コールが巻き起こり、まさかの歓迎ムードにプライドを傷つけられた永田が怒り長州を張り手をかまいしてしまう。実は長州は「乱闘はありえないぞ、本当にアウトだからな」と乱闘はNGという条件を出していたのだが、永田は襲い掛かってしまっていた。上井氏は永田流のアドリブかと思っていたが、永田は本気で怒っていたのだ。そこで天山だけでなくCTUを結成しヒールターンを果たしていた獣神サンダー・ライガーが駆けつけ長州に怒りを露わにすると、まさかの事態に上井氏は慌てて長州に引き揚げるように指示し、長州は石井と共に引き揚げていった。。だがバックステージでは長州の乱入を知らされなかった会長の坂口征二、山本小鉄、同じく参戦していた全日本プロレスの武藤敬司までも上井氏に怒り問い詰めたが、長州の登場というサプライズを成功したにも関わらず誰も上井をかばう人間はおらず、倍賞氏も知らんぷりするなど、上井氏は四面楚歌の状態にまで追い詰められていく。
複雑な気持ちを抱えたまま天山と永田は蝶野、ドン・フライのブラックニュージャパンと対戦。ブラックニュージャパンは、今年から現場監督を辞してヒールターンを果たした蝶野がnWoやT-2000の再現を狙ったユニットで、スコット・ノートン、中西学、長井満也がメンバーとして名を連ね、またジュニアのヒールユニットCTU(ライガー、稔、邪道、外道、竹村豪氏、後藤洋央紀)と共闘して一大勢力となっていた。
試合は5分が経過すると中西とノートンが乱入し、中西が天山を担いでそのまま控室へと拉致されると、残りのメンバーやCTUが永田を総がかりで痛めつけてから蝶野がシャイニングケンカキックを浴びせて短期決戦で勝利も、ファンはブーイングどころかビールが入ったままの紙コップやペットボトル、ゴミなど物を投げつけた。中には退場しようとするノートンに掴みかかろうとしたファンもいたという。嵐の中駆けつけたファンが見たかったものは天山の奮起で、その期待を裏切られた怒りによるものだった。
試合後に永田は「どいつもこいつも業界をかき回して守ろうとしてた奴が守りきれなくて、勝手に出て行って、オレは確かに天下を取れなかったかもしれない、でもオレが闘ってきたから、新日本が生き残っているんじゃねえか。投げやりで出ってた奴らには言われたくない」とバックステージで発言、永田も長州の復帰は猪木の差し金によるものだと薄々察していたが、自分ら所属選手が信用されず、外敵ばかり重用させる現状に対する嫌気や不満がセミに表れていたのかもしれない。
そしてメインのIWGPヘビー級選手権、メインさえ良ければ大会全体も救われるのだが、またしても期待を裏切られた。藤田が胴絞めスリーパーで健介を捕獲した際にマットに両肩が着いているとして田山正雄レフェリーがカウント3を叩いてしまい、わずか2分39秒で健介が勝利してしまう。技がかけている方がカウント3を取られる釈然としない終わり方にファンが怒り、またしても物を投げつけ、健介のセコンドに着いていた北斗晶も「あれでいいのか?ふざけんじゃねーよ、テメーなめやがって!フリーだと思ってなめんじゃねー!」と怒り草間氏を蹴りを入れ、バックステージでも勝利者トロフィーも床に叩きつけて壊すなど大荒れで引き揚げていった。なぜこういう結末になったのか猪木事務所の意向が働いたのは明白で、総合格闘技で商品価値が高まっていた藤田の商品価値を落としたくないという考えもあったという。
大会は終わると上井氏は改めて大会の3日後に辞表を提出した。理由は両国大会の全責任を取ったのではなく、周囲の人間不信や嫌気もあって気持ちが果ててしまっていたからだった。ところが草間氏は上井氏の辞表をすぐマスコミにリークしてしまい、「台風の中、来てくれたお客さんに申し訳ない。長州乱入については経営陣は誰も知らなかった」として全ての原因は長州を招いた上井氏にあるとして責任を押し付けたのだ。草間氏は「貴重な人物がいなくなるのは大きなマイナス。本人は『やっていく自信がない。疲れた』と言っていたので少し休養し、戻ってきて欲しい」としていたが草間氏は本気で引き止めもしようともしなかった。草間氏にしてみれば経費削減を推し進め、自身の敷く純血路線を推進するためには、上井氏の存在がどうしても邪魔だったというのが本音だったのかもしれない。
しかし新日本は猪木との調整役だった上井氏が去ったことで、現場は蝶野正洋を中心としたマッチメーク委員会と、猪木による合議制で取り仕切ることになったが、合議制になってことで猪木の現場介入に歯止めが利かない状況に陥り、ファン無視のマッチメークを組んだことでファン離れがますます深刻化していく、草間氏も経営改善だけでなく現場にも自分の権限を拡大しようとして、棚橋弘至、中邑真輔、柴田勝頼の売り出して世代交代を図り、永田や天山に棚橋らの踏み台になるように迫ったが、柴田が上井氏に追随して新日本から離脱、また踏み台になるように迫られた天山や永田も猛反発したため、草間氏も次第に立場を失っていく。それでも3月の決算ではこれまで赤字だった新日本を黒字で計上するも、2005年5月に任期半ばで解任されてしまったことで、猪木だけでなく新日本から受けた仕打ちに怒った草間氏は新日本が経営危機であることをマスコミや著書にて暴露、新日本の経営危機に拍車をかけ、ユークスへの売却のきっかけを作ってしまった。
10・8当日にはNOAHが後楽園ホールで興行を開催、KENTAvs天龍源一郎を組んで大好評をファンから好評を得ていた。あの頃のNOAHは絶大な支持を集めつつあったが、対する新日本はファンからの支持を失っていた。その理由は上井氏一人が原因でなく、新日本全体がそれぞれの思惑に走り、気持ちがバラバラになっていたこと、このときの新日本は大事なことに猪木すら気づかなかったのかもしれない…。10・8両国大会中には嵐が過ぎ去ろうとしていたが、2004年の新日本はまだ暗黒という嵐の真っ只中で出口さえ見つからなかった。
(参考資料 日本プロレス事件史Vol.10「暴動・騒乱」上井文彦著「『ゼロ年代』狂乱のプロレス暗黒期」)
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